夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

三島由紀夫。

三島由紀夫が45歳で自決して50年が経過した(決行日は11月25日である)。


本年はその区切りからか、さまざまな論評を目にしている。生きていれば95歳、自決がなければ生存していてもおかしくはない年令だ。三島が今、生きていれば、日々どのような発信をしているのだろう。黙っては、いない気がする。


同じく存命であれば、どのような発言をするか、と思う作家は、個人的にはほかに澁澤龍彦だ。澁澤は自裁したわけではないが、比較的若年で亡くなっている(59歳)。教科書で出てくる文学とは違った、それでいて文学として確固として屹立しつつ、背徳、蠱惑の要素も強い。ある種の人間、それも私のようにいろいろなコンプレックスのある人間は、幼少時から青年期に到る或る時期どうしようもなく三島や澁澤に入れ込んでしまうのだろう。はしか、のように。


1925年生まれの三島に対し、澁澤は1928年生まれ。生まれ年で3年違うが、学齢では4歳違いになるだろう。付き合いは昭和31年(1956年)澁澤が自らの翻訳本である「サド選集」への序文を三島に依頼したことに始まるという。1970年11月25日の三島自決の3か月まえの8月、2ヵ月半の欧州旅行に出かける澁澤を三島は見送っている。もし三島がすでに決行を決心していたのなら、たんなる見送りの体に見え、三島の心の中では、それは密かな今生の別れとしての見送りでもあったのだろうか。


サド裁判で有罪となる澁澤と、その著作をベースに戯曲「サド侯爵夫人」を書いた三島の関係は、いったいどのようなものであったのだろう。緊張をはらんだ、微妙である意味興味深い関係で、あったのではないだろうか。黒メガネの澁澤と、胸筋や上腕部の筋肉を誇示する三島が並んでいる図を想像するだけでも、なんだか楽しくなってくる。


三島が筋肉を鍛えたこと、これは幼少時身体が弱く、体育を見学したという体験も影響しているだろう。私も同じく、中学2年生の時に1年間体育を見学した。身体が特に虚弱というわけではなく、血圧と腎炎が理由であったが。


こうした経験があると、自己防衛的(結局対外的な理由ではあろうが、放っておけば自信をなくす自分へのいいわけとして)に身体を鍛えることになる(個人的意見)。鍛えれば、鍛えるほど、安心するのだ。ただ、鍛えるきっかけがどちらかというと自身の弱みからであるので、”なぜ鍛えるか”と問われることへの、絶え間ない不安ともれなく並走してはいるのだが。


だから私は、体を鍛える人に共感する。なんらかの意味、なんらかの弱み、なんらかのきっかけが、必ずあるだろう、と思うからである。


私が三島に惹かれる理由のおおきな一つには、たぶんこのあたりがあるのだろう、と思っているのである。


(弱い人は、弱い人のこころを感じざるをえません。そしてそれを馬鹿にはできず、共感するしかないのです(個人的見解=本日2度目。。)。)