夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

紀元前と紀元後。

紀元前と紀元後について。


日々当たり前のように西暦を使用しているわけだが、考えると西暦はナザレのイエスが生まれたと伝わる時がスタートなわけで、だがこの日本では特段そのことが意識されているとは言えないだろう。


世界意識調査でも、日本の宗教に対する距離感は特殊なようで、先ほど大統領選挙でもめた米国でも、共和党支持者には宗教的な意識が高く、その意識からすると進化論が(信じる信じないではなく、宗教との整合性からの結果であろうが)当たり前と思われていない割合が高い、ということなどを知ると、ほとんどすべての人が進化論を当たり前のこととして学校で習うこの日本に住む身としては、なんだか彼我の差異に不意に面する、あるいは茫洋とした気分になる、という状態に、個人的には陥る部分もある。


だが考えてみると、イエスの誕生、という伝承が、世界が大きく変わった、という意味での基準だとすると、明確には区別は難しいのかもしれないが、いわゆる電脳、あるいはWEB以前と以後、という形で数千年後には人々(それも電脳の中に取りこまれた存在かもしれないが)は考えているような気もする。


人間に必要なものは、森博嗣によると、金、場所、時間である、という。チャップリンによると(いろいろ言われているが)愛と勇気とSOME MONEY(希望と勇気の場合もある?)という言葉もある。愛や勇気は結果的には時間と場所にめぐりめぐって関係する気もする。森氏の名言でいけば、私としてはそこの1項目(例えば金)に過度に偏在せず、バランスよく求めることが必要であると個人的に感じるところである。


その3重要項目の中で、場所、について言えば、電脳後(紀元前紀元後の語法でいけば電脳前、電脳後でしょうか。なんか語感悪いのでWEB後でもいいですが)の顕著な(必ずしもHAPPYかどうかは別として)変化は、個人的には所蔵するリアル本が電子図書になってゆくことによる本が占める場所の減少であろう。


実は私は今もほとんどリアル本である。だが、場所がやばい。地べたにモノをおくと整理できないと聞くが、小さな自称書斎に入る際は、小さな本の間の道を通って机にたどり着く、ということになっている。まだ、本の上を歩いていないだけいいだろう、と思ってはいるが口には出せない。慣れもあるが、本はリアルで読むことがまだ多い。だが、置き場所がなくなれば、図書館あるいは電子書籍、になってゆくだろう。


電子書籍の場合はたとえば家に本が雑然と並んでおり、こどもがそこから適当に読んで新しい世界に接する、ということはもうあまり起きないだろう。例えば親が、キンドルを子供に電子書棚として遺し、子供がそれをれを適当に読む、ということはあるのかもしれない。だが、その時に選ぶのはタイトルから、となろう。リアル本の手触り、装丁、表紙イラスト、古びとほころび、書き込み、ときには蔵書票や古本屋の値札、といった雑多な要素は、その時はもう関係がなくなる。


ノスタルジーだろうか。それらのことに気づき愛でてきた自分への愛惜だろうか。


いろいろなことが変わる。変わる前の世界に一時でも身をおいたものは、その世界の変遷に遭遇して自身の一部もまた変遷する、あるいは”死んでいく”ように感じるものだろう。昔はよかった、の詠嘆のなかに含まれるうちの85%はたぶん、過去の自分を、過去の記憶を、愛惜する気持ち、だろうと思っている。


(過去の記憶を記憶として思いだしているのも、今の瞬間の自分であり、未来を考える自分もまたこの瞬間の自分である、とすると、時間はなく、今この瞬間のみが永遠としてある、ということできるかもしれません)