要するにアリスは、ひとりの孤独な男の心のレンズに、逆さまに映った少女のイメージだったのだろう。
アリス あるいはナルシストの心のレンズ 澁澤龍彦 1973 アリスの絵本 牧神社より
これからの創作物に、旧いや新しいは、従来のようにはなくなるだろう。
電子出版が書籍のスタンダードになると、本の世界では従来よりも”プロ”と”アマ”の差異がなくなってくるだろう。もちろん技術の差はある。だがぎりぎりプロとぎりぎりアマの差、が、電子書籍という仕組みのなかであまりなくなる。つまりは”お試しで電子書籍を出す”のハードルが(たぶん)自主出版より金銭的に低い。
従来は、出版社があった。出版社の目利きが、才能がある、とみなさなければほぼプロにはなれなかった。これはほかのクリエイティブな仕事でも同じだ。アイドル、俳優、映像配信者。従来は事務所に所属する、という仕組みが中心であったろうが、いまは”スマホ一つで”できる。
ただ、厳しいのはそれらの”創作物”が従来はほぼその時代に”物理的に存在する”ものとその良さを競えばよかったのだが、今はデータで閲覧できる全ての成果物との比較となる点だ。従来あった国、地域別の癖やテイストも薄れてくる。言葉も翻訳により簡単になってきた(とりあえず大意をGOOGLE翻訳でつかむ)。
全人類に向け、全歴史と比して、空前絶後の新しさを求める作業になる。ただ、母数も、増える。
変化、である。どちらがいい、悪いというより、変化しているのだ。
紙の本の印刷部数が減っているという。出版社は物流費、在庫保管料など減るので電子書籍の方が実は楽なのだろう。ただ、紙の本の流通(販売含め)に関わる業界が問題だ。これは写真とも似ている。皆が写真を印刷していたが、今は基本データである。データもクラウドに、ある。出版社は、川下(この表現は微妙だが)の仕組みに忖度し、あまりそのことをおおっぴらには言えないだろう。
今後は本が絶版で読めない、ということがなくなる(著作権との調整は必要=過去作)。後の世代の感覚だと”絶版って何?”となるのだろう。
新作は、紙の時代よりももっと多くの著作と、自然に比較されるものとなる。
12月7日の読売新聞コラムで、奥深い僧院で、スマホ中毒で目が真っ赤になった少年僧とあった、というような記事があった(うろ覚えです)。奥深い僧院では、スマホに接してほしくない、というのは接している側から言うべきではない。知らないことが幸せかもしれないが、知ることが可能であるなら知ったうえで判断する同士の感想で、あるべきだ。そのことを嘆くのも、持つものが持たざる者を、気が付かずに憐れんでいる姿である。問題はそのことに気づかないこと、裏に潜む意地の悪い優越感、なのではないか。”持たない姿が美しい”?
そのことはいまはいい。だが、これはつまり、すべての本は、すべての映像は、すべての写真は、その到達する母数を略人類すべてとした(あるいはしつつある)、ということだ。
冒頭にアリスに関する澁澤龍彦の言葉を載せた。英国の少女が居て、孤独な牧師兼数学教師がいて、個人的な物語のやりとりをした。
そのことが本となり、日本人の澁澤の心になんらかの印象をのこし、そしてそのことをこうしてブログで考えている。このことはつまりは、すべては繋がっている、すべては一である、ということの、一環であり、証左でも、あるのだろう。
世界は繋がり、意識がつながる。もともとの融合へと、世界は進んでいる。
(アリス好きとしては、アリスのことが共有され、クリエイトの源の一つであることは、楽しいことだと、思います)