夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

言語、文字、そして美術の役割。そこから魂について考える。

言語とはその語を(翻訳も含め)操る人々の生をブーストする道具である。音声の届く範囲は限られていたが、録音技術により大きく拡大し、時間を超えることになった。文字は言語と相対することにより、録音技術のない時代から、思想や思考をこちらも時間を超えて大きく広げる働きをした。

 

そして言語や文字以前にそのことを伝える役割を担っていたのは、「美術」であろう。

 

いわば最も原始的ながら、ある意味瞬間的で最も強力な伝達手段でもあるだろう。写真や録画技術がそれを広げたのだが、まずは美術は基本固体として存在しているのであるから、その固体が存続する限りは伝播力を保持している。

では言語も文字も、美を生み出す力もないものには、なにもないのだろうか。全くそうではない。原初には「感情」があっただろう。

 

自らの心を見てみると、確かに今は「あいつはむかつく」というように言葉にして感情を内包していることが多いようだ。だが言葉が仮になくても、「あいつがむかつく」が持っているパトスを持つことはもちろんできるのだ。

 

では魂は植物にあるのだろうか。いや、生物とはみなされない、「もの」にはどうだろう。

 

ここ日本では、「もの」であっても魂を持っている可能性を感じていた。だがそのことはどうにもわれわれ「人間」では感知できないだろうが。

 

歳を経りてものに魂が宿ると物の怪となる。もののけ、の「もの」とはつまりは物であるからして、結局はその可能性あるなあ、と感ずるだけで一生を終わるのであるが。

 

(ものに魂ありうる、と思っています。猫には考えるまでもなく、ありますね)