夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

模写と模倣.

模写と模倣について。

 

模倣について思いだすのは学術論文の盗用問題だ。これは他人の論文を、他人のものと言わずに自身のものと偽る、という点が、そもそも残念な発想である。ただ、偽らないで自身の結論を導くためのSTEP BOARDにするのであれば問題がない。最近よく聞く”オープン・ソース”というのはこの発想であろう。

 

ドイツ人であるデューラーの生きた時代は、イタリアでルネサンス運動が興っていた時期と重なっている、と理解している。デューラーは、工房系の家に生まれたが、自身の技術を磨くために”モラトリアム”と称して20歳頃に2年ほどイタリアに遊学していたと記憶する。

 

今なら、さまざまな情報がインターネットで入手できる。だが、この”いつでも入手できる”という感覚が曲者なのだ。いつでもできる=本気で向き合わずともよい、となるからである。

 

印刷技術が発展したことでも、そうしたことは起きたであろう。だが紙の本であれば、それの流通期間は限られるし、欲しい情報が載った本が既に絶版、ということもある。海外の本を入手するのは基本困難だ。

 

そのハードルを越えて、情報を入手しよう、という熱意、そしてその熱意が実ったことの喜び。こうしたものが、情報を入手し、咀嚼し、自分のものにする、というモチベーションにつながってくる。

 

デューラーの立場を考えれば、更に情報入手の熱意は切実なものとなる。なにしろこの数年イタリア滞在で、可能なイタリア芸術を全て吸収しないと、モラトリアム期間が終わってしまえば、もう二度とそういう機会を得ることが不可能かもしれないのだ。

 

写真など、ない。自身の目と記憶力と、そして画家であれば”模写”であろう。そこでの”模写”は自分自身の為だけに、自分自身に最も合った形での、行為となる。

 

つまりは”全く一緒でなくともよい”。似せることでだけではなく、自身の画業に役立つように、好きなように行えばよいのである。

 

ルーブル等、欧米の美術館は画学生(別に若くなくてもいいが)や絵を志すものの模写を歓迎するという。これは、新しい美術が生まれる将来の場面を生むための、美術館が、警備員の立場で出来る参加である。つまり自身が美術活動の一環である、ともいえるのだ。

仕事で、絵を見せて費用を稼ぐ(もちろん運営には必要だ)だけではない、美を生むことへの共感と協働。

 

その空間にあそび、感謝し、そして自身の思うがままに先人の苦闘の結果を感じ学ぶ。これが模写である。

 

たまたま絵のことを言ったが、これは”オープン・ソース”の意識とも通じるものであろう。従来であれば”特許”として富を生む(時として個人を億万長者に簡単にしてしまう)ものとして、囲い込んだものであろう。それを、”ただ”でオープンにする。そのことは、そしてそうする人は、自らの知識やノウハウを、人類の進歩を寿ぐために喜んで提供している、と言えるのだろう。

特許、がいけないわけではない。この仕組みがあることで、特許取得を狙ってさまざまな新しい技術が生まれる。著作権、もそうだろう。両者とも一定期間が過ぎると、権利が失効する。

 

一から、無から新しいものは作り出される。なぜかこういう思い込みにとらわれていた。

 

実際は、生み出されるものは、先人の、すべての人類がのこした”潜在意識に埋もれた共有記憶”のようなものが、関係している、という感じがする。意識的に先人の遺したものを参照するのもいいだろう。ただ、栄養を取り込むように、見るのもいいだろう。

芸術でも、あるいはこうした文章でも、そういうことがあるのだろう。

 

(ただただすばらしいものを見るのは、喜びである、というところも強いのですが)