夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

偽版画事件に想う。

本日朝朝食前の体重は63.1kg、体脂肪率は8.8%であった。体脂肪率については10%を切っているが、同じタイミングで翌日は12%位になることもよくある。これは筋肉量の測定結果に差があるからのようで、53.4kgから54.8㎏くらいまですぐにぶれるようだ。このあたりはもう誤差としたかいいようがない。

意識して日々食べている。糖類は取らないようにしていたが、それだと結構体重が落ちてゆくので、夜は一膳は食べるようにしている。昼も抜いていたが最近は食べている。そして金土日の運動は控えめになっている。このあたりは今後足腰の感覚を見てゆくが、暇があれば外をうろうろ、というのはすこし抑えようか、という感覚だ。

版画について。

本日の読売新聞にて、何度かこの日記でも取り上げてきた複製版画に関係する画商や版画工房が訴追されるか、という記事を読んだ(昼間のラジオによると、上記の2人は著作権法違反で逮捕されたという)。

複製版画とは、本来は版画として制作されたわけではない一枚絵をベースに、この場合は専門の版画工房が複製の版画を改めて制作するものだ。原画とは基本的に、別のものだ。そして今回の問題は遺族の確認や実際の作家のサインを偽造して、販売したため、というのが私の理解だ。つまりは、購入者に「この版画は遺族、あるいは本人の確認を経ている」と誤認させ、その確認があることに個人的に価値を見出したり、あるいはリセールバリューを期待させた点が、著作権法違反となるのだろう。

版画とは、本来は複製のために発生したものである。したがって写真や写真製版等がない時代は、出来事を複数の読者に伝える手段として発展したものである。西洋でデューラーゴヤなどの名を思いつくが、原画を自身で描いて自身で彫ることはその後はすくなく、彫り師や摺り師、といった専門家に原画を提供して版画を作る、という分業制で発展したものだ。

私の場合は原画を自分で描き、それを自分で彫って自分で摺っているが、これはいわゆる版画が絵を複製する、という役割を終えた、あるいは大きく縮小した、ということから出てきた先祖還り的な原初形態とも言えるかもしれない。

それでいくと、原画をもとに専門の工房で原版を作って擦る、というのは、古くからおこなわれてきた形態であり、ここでは版画としての、絵としての(リセールバリューではなく)魅力とは、版画工房の再現力、が担っているといえるだろう。

今回の事件では、専門の工房が作成しているので、たぶん版画としての出来は問題がないのだろう(現物を見ていないが)。版画は原画(これは今回はもともとは版画の原画としよう、とは画家は思っていなかったのではないかと思うのだが)とは違うので、絵の出来具合からは、偽物、本物という区別は困難だろう。そもそも版画としては、すべてが本物なのだ。原画があり、版画がある。両者は別物なのだから。原画作成者と、彫り師と、擦り師は、通常別の人間なのだ。

遺族や原画をかいた画家の確認は、もちろん意味を持つ。書類に押した、確認印のようなものである。

お恥ずかしいのだが、私は専門的に版画を学んだわけではなく、ただ技法として銅版画、エッチングをかじったにすぎない。版画の来し方、行く末、生まれと育ちは知らなかった。美大にいっていれば、歴史を学んだのだと思うのだが。

今回の「偽版画」の事件で、図らずも版画と原画、遺族や版画への画家のサイン、確認、という世界のことを知ることになった。版画がアートとして見られるかどうか、という点も、銅版画が情報提供手段として発展した西欧と、同じ用途ながら木版画が主であった(木版画であれば、日本流の彫りでは銅板ほど細かくは彫ることは通常困難だ)日本では、意識が違っているようだ。

私は自作がアートかどうか、というのはわからない。「アートをつくるぞ」という意識が、邪魔である、という認識もある。作りたいものを、素直に表現する。それで終了だ。

それが版画であろうと、鉛筆画であろうと、それは手段の違いだけである。

目的のある絵、というものがある。写真のない時代の肖像画や図鑑の絵、事件を伝える説明画、といったものである。それは正確なほうがよかったので、写真が出てくればそちらに移行する。これはネアンデルタール人ホモ・サピエンスに絶滅させられたようなものだろう。

だが、正確性を伝達する以上に、絵に思いを込めて作り上げる、その時に版画を使う。この手段としては、残ってくるのである。

自身が行っていること、版画の歴史、これからどうしていくか、といったことまで、今回の事件でいろいろと考えさせられた、気がする。

(今後の推移を見守りたいです)