夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

芸術とはなにか。

芸術とはなんだろうか。


そもそも芸術とは、工芸から発したようであり、そうではないようであり、両者は私にとって“鳥と蝙蝠”(どちらがどちらかは不明だが)のようなイメージだ。


“鳥無き場所の蝙蝠”といったような(正確ではないですが)ことわざがあったように思うが、本物のないところで偽物が幅を利かす、といったような意味で、この中では蝙蝠はあまりというか、そうとうひどい扱いである。差別的な意味のある、ことわざ、ではある。


そして私は、蝙蝠が好きである。目が退化し、鼻で超音波を出すタイプのブサかわいいのもいいが、東南アジアにいるというオオコウモリ、まさに狐に翼があるようなタイプは、顔がかわいいので気に入っている。生来、とんがった顔がすきなのだ。なので人間でも鷲鼻が好きである。蛇や爬虫類も、嫌がる人も多いが、顔が大好きだ。
なので、好きで作っている銅版画も、蛇モチーフのものが多い。


話がずれましたが。。。


”芸術はわからない“というひねくれた感想は、これはたぶん学校で押し付けのように見せられた抽象画(抽象画が嫌いなわけではないが)や前衛芸術(デュシャンの便器などはたぶんなかなか教科書には掲載されなかったのではないかと思うが)にピンとこなさ過ぎた結果の、反発心からのものであろうか。


個人的には、”感動したら芸術かな“と思っている。個人的な感想でいい。一般的評価は不要だ。


だが、どこか作者のストイックな、“これで儲けたい”という思いが前面に出ていない(あってもいいのだが)ものを、個人的には芸術、とみなすようだ。


つい、できてしまった。


なんだかわからないが、激情に取り付かれて、あるいは静かな思いでつい筆をてにとって、作ってしまった。

 

という感じのものだろう。


そして、それらの作品を回路として、その作者の思いを味わう。

そんなものを個人的には芸術とよびたいと思っている。
なので、Aさんには芸術でも、Bさんにとっては意味不明なもの。
その逆もあり。

 

ということで、いいのだと思う。

 

そもそも全ての我々の活動が、生きのびることやDNA保存の本能が原因になっているのかもしれないのだが、その指令に時には逆らいたいではないか。


今、この瞬間への賛美と喜び。純粋な美をただただ求めるこころ。

 

そんなものも、あってほしいではないか。

そう思っている。

 

美しさも、ただ雄が雌にアピールするためだ、と言ってしまえば、それはどこか即物的である気もする。それがいけない、わけではないが。

 

余裕、あるいは(そういう世界を突き抜けた)経験、というものが、あるといいのかもしれない。

 

いま、人生100年と言われる。もちろん全ての人がそこまで生きるわけではないが。
だが、そういう世代が(昔に比して)大量に存在していれば、いきおいその世代の芸術もまた、多くこの世に生まれるのではないか。

 

枯れた味わいの、生殖のための装飾から、遠く離れたもの。老荘思想水墨画、仙人、というような言葉も面白い。

 

そんな作品が、増えるのではないだろうか。
(けっこう世界のなかには、こうした深みの世界があるような気がしています。いま、私が知らないだけで)