(前略)自分の学問の土台となったものについては、「本文ばかりを、年月久しく詠(なが)め暮し」たという他に別に仔細はないのだ。「注にたより、早く会得いたしたるは、益あるやうに候へども、自己の発明は、曾て無之事に候」
小林秀雄 考えるヒント2 電子書籍21%部分
学ぼう、という思いや姿勢を得ることが、そもそも難しいのだ。
小学校へゆき、「学びなさい。」と言われるわけだが、あんまり「学びたい。」とは思っていないだろう。普通は。
勿論、さまざまなケースがあろう。この食うに食われぬ生活から逃れるためには、「学問しかない。」。
こんな思いは、イメージではあるが小作農の次男坊、というステータスの、昔であれば「ごくつぶし」とも言われたであろう、わかりやすく差別される日々を家庭内で過ごした人が、縋り付くように思うことかもしれない。
翻って、現在はどうだろう。
これもイメージであるが、まあごくつぶし、という扱いを子供は受けていないことが多いのではないか。育児放棄を受け食べるものもない、ということもあるだろう。その時人は、そこから脱出するための手段として「学び」を求めるだろうか。
広い意味では「YES」だと思う。自らからにじみ出る、狭い経験と、閉ざされた人間関係からの学習から導かれる「自身にとっての最大効率」はなんだろうか、という思いが、あるいは明確に意識されなくとも、起こるのだろう。
自分を振り返ってみてもそうだ。
親の庇護から出たときに、何とか食べていけるようにならなければ。
そういうことはやはりいつも思っていたように思う、大きな不安と共に。
なんとか、会社で採用してもらった。ありがたい、ことである。
それはそれとして。
純粋に「学びたい」という思いは、大変に得難い、ある意味では贅沢なものかもしれない。
通常は「学ぶことにより、技術や手段を得て、結局は餌を入手することにつなげたい」と思うような気がする。そう思うので、学校で「学びなさい。」と言われれば、「親の庇護がなくなった後に使える手段として」、という枕詞が聞こえてくる(気がした)。
その枕詞が、恐怖である。ずっと来てほしくない、と思うことなのだ。
これは「死」と同じ系列の思想かもしれない。
死を思うことで、それを引き寄せる気がする。
これが人間のデフォルトであろう。なのでこの教えがある、「死を想え」。
逃げずに見つめよ。逃げたいのはみな同じだ。メメントモリ。
ちょっとは弱いが、にた系統だ。親の庇護は有限である、そのあとは自身で生き延びよ。
いわばこれは「死を想え」の前段階、「(自分の力で)生きることを想え」とでもいおうか。直視せよ、現実に、という言い方の一類型だ。
いやなことは、できるだけやりたくない。なので学びたくない。そうなる。
だがちがう、「贅沢な」学びが、世界には一部あるのだ。
普通はアクセス、できないが。
例えば大学の研究者。一部担当する講義などはあるだろうが、それを行えば「自ら答えのない謎、誰も説いたことのない謎を見つけ、世界で初めてその謎の答えの試案を追求する」ことが仕事になる。
考えてみれば、これは幸福な「学び」である。
場合によっては(と条件付きになるが)、食べるために学ぶ、の「食べるために」を(ほとんど)除外できる、あるいは忘れる(ふりをする)ことさえ、できるのだ。
こんな「学び」であれば、これは真摯に向き合ってしまうだろう。傲慢もそこにはない。学ぶ効率もない。そもそも記憶することが学びではないのである。
そこで出てくるのが、冒頭で小林秀雄が荻生徂徠の言を引用した部分。
古き事は、引き寄せて考えてはならない。そこに自らが(観念的に)赴いて(疑似的に)自ら体感することだけが、そのことを真に知る手段である。
学ぶことは、結論にたどり着くために、他者が得た手段をなんらかの手段により入手採用することでは、真の達成は不可能である。本質的にはその手段を自らが時間をかけて入手することなしに、再び結論に到達することはできない。
これはヤマトが、ワープ機能なしでイスカンダルに行けないのと、同じことだ。
そのことを、徂徠は言っている。役所の学門所で、藩や幕府に「言われて」「嫌々」学ぶ人たちに、日がな一日絶え間なく教え続けて会得した真理心理だ。
学びに近道なし。
だが真の学びの先には極楽あり。
高校時代、「教科書ガイド」の古典現代語訳を試験前に一読すれば、古典はいつも高得点が取れた。漢文もしかり。だがそれだけではやはり真の力とはなりがたいだろう。やはり白文を眺め続ける時間と意識が、必要なのだろう。
(真の学びに、あこがれます)