人が他人を美しいと思う理由は、美しいものが長生きにつながる可能性が高いからだという。
この説には個人的には納得感がある。
人が他人を見て美しいと思う、ということは、とにかくとことん自分勝手であり、コントロールがしにくい、と思ってきた。
ある意味、苦々しく感じる部分さえある。
なぜ、それほどわがままであるのか。
長生き、つまりは種の保存、DNA,の命令であるのだ。生物として、人間という種を進化させるためのものとして、必要なこと。それは長生きをする生物としての賢さと強さを持つことである、とDNAが命じ、それを各個体があくなく追及することである。
ということは自明である。
なので、美醜、をとことん批判することは難しいことでもある。
エゴ、とはDNA的種の自己保存とニアリーイコールである、と感じている。
エゴは、容赦なく、自分勝手であり、コントロールが困難であり、わがままで身もふたもないものだ。
時に人はその身も蓋もなさに辟易することさえある。
これが古来の智慧、一歩下がって冷静に「生」をみろ、という教え、
つまりは「メメント・モリ」という考え方が存在する理由の一つでもあるのだろう。
メメント・モリ。死を想え。その命令は時に骸骨と踊る美女で表現される。死の舞踏、と呼ばれる絵図である。
生がもっとも求めるものである「生物としての美=長生きの象徴」である美女が、骸骨と踊る。死と隣り合わせの生。死はどこにもない。いま、ここに在るもの以外は。
そう、伝えようとする。
時に人は、露悪的である、とそれを見るが、それはたぶん、死のことをできるだけ考えたくない、ということと、身もふたもなくエゴとDNAでほしいものを求めざるを得ない、「生のダンス」をどこかで深く理解しているからだろう。
この日本、この最新の生活では、死は死ぬ最後にやむなく見据えるもの、とう位置にあるようだ。それは死を考えるわざである「宗教」がこの地であまり根付いていないこととも関係があるのかもしれない。
土葬と火葬、への思いの差にも、それを感じる。
だが、やはり、考えておいたほうがいいのではないか、わが身の死を。
池田晶子さんはおっしゃった。
全ての言葉が絶筆です。
それは池田さんの覚悟を示すことばであると同時に、メメント・モリ、という面も多分にあったのであろう、と今は思う。
池田さんは、桜もお好きであった。例えば桜。日本人は一瞬で咲いて散る桜を理想とする。クローンであるソメイヨシノは、同じ時期に咲いて散る。クローンとしての生、にそれほど嫌悪感が起きないのは、同質の世界で同質者として生まれて生活し、死んでゆく我々日本人、というものに、激しく類似しているからなのかもしれない。
それをわかっていても、やさしくそれもよし、とみる雅量もまた、池田さんは、お持ちであったと、
思う。
(みずからの墓碑銘も、池田さんは常に考えられており、最後の週刊誌掲載=それは死後に掲載されたものでしたが に、自らのことではなく、さりげなく一般的なものとして、静かに挿入されていました)