宗教が常に死後の世界が素晴らしいということを説いているのも、それは逆説的には死ぬのが怖いので、死を恐れないようにするための一つの方策として色々な理論を組み立てているのです。
勝間和代さんのブログからの学びである。
人が生き物であり、自らが死ぬことを心の中ではとことんわかってはいるが、そのことを直視したくないこともその反作用でとことんわかっている。
勝間さんの教えで気づいたのは、職業としての「宗教」、つまりその宗派に関わる人間が、その関わりから「生きる為の費用を得る」ためには、各人が持つ死への恐怖を際立たせ、訴えかけることで、それに対する「手段」を宗教的に「信じさせる」ことで対価を得ることが必要だろう、ということだ。
宗教組織に、組織人として「就職」した人たちは、それを奇跡の風味でまぶして「信じさせる」ことに特化すべきなのだ、我が生の「糧」を稼ぐためには、ということをとことん学ぶことだろう(疑問に思う人も多いと思うのだが)→そこからいろいろ深みのある考えが生まれたことも否定できないが。
だが、そういう仕組みを、根源から揺るがすものこそが現代で「異端」、と呼ばれている考え方である。
異端(と既成宗教から烙印を押された立場や考え方)は、この世で生きること(=死ぬことの恐怖を持ち続けること)を、今生が悪である、という設定によるひっくり返しにて、恐怖より期待に転換してしまう仕組みを持ったもの、ということが出来るかもしれない。
グノーシス派や、カタリ派は、この世を作った「モノ」が、意識的にしろ、無意識にしろ(グノーシスではアブラクサス?は確か自身が悪であるとは知らなかったはず)基本悪いもので、この世から「本来の場所」である「死後の世界」に戻ることこそ素晴らしい、と説くものだ、というのが今の私の認識だ。
単に信じる人はいいが、キチンとその宗派に入り込んだいわゆる「聖職者」階級?レベル?の構成員は、子孫を残すことがなかったという。
そういう組織が、「我こそは真のキリスト者である」と信じきっていると、組織を運営する中で自らの糧を得ることを(無意識、あるいはそう考えたくないと思っている場合もあろうが)結果的に行う組織が、「これは分が悪いぞ」と認識するのは当たり前だろう。
で、火あぶり。
子供を残さないという教義のお陰で、性的に放縦であり、乱れている、という虐殺の理由付けは、なんというか後付けの言い訳のように感じてしまう。
まあ、その時の空気や気持ちをわかっていない身での勝手な考えではあるが、今はそんな風に考えている。
(取り込み無理なので、虐殺した、という気がします。。)