夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

「複製版画」と版画。

昨日は、百貨店の美術品掘り出し物市、というところへ行った。

 

私は銅版画をやってはいるが、正式な美術教育というものは受けたことがない。中学校では確か2年生まで美術があったのだが、それ以降は高校3年に至るまで残念ながら美術の授業は無かった。

 

私立の6年一貫校であったので、授業は自由に変更できたのだろう。当然家庭科や技術、という授業は皆目覚えがない。

中学校ではなるべく部活に入りなさい、という指導を受けた。当然ながら我が内部に運動部という選択はない(そもそも通学に往復合計4時間かかったのだ)。もし、レスリング部があったら、これは入っていただろう。相撲部ももしかしたら。だがもちろんかけらもない。帯を持てない柔道はそもそもやる気がない。

ということで、文化部。これがもうほとんどなにもない。ブラバンがあったかもしれない、くらいだ。文芸部もない、落研漫研があったら、後者には入っていたであろうが、もちろん無い。

美術部、はあるらしかった。だが部員0、先生もいないという。仕方がないので一応入ったことにはしたが、そもそも先生がいないし、部室もどうだったか。本当はデッサンの指導などやっていただきたかったし、いろいろな美術の歴史も知りたかった(そもそも授業がないのだから)。

なんとなく、家でイーゼルを買ったり、木製のポーズ人形?を買った覚えもある。だがNO 指導ではなかなかどうにもならない。

 

百貨店での美術品販売というと、昨今大阪の画商が「版画」を「偽造」して百貨店で売りまくった、という事件があった。「版画」の語に反応してそのあとの経緯を少し気にしていた。

 

そもそもおはずかしいが、版画をやってはいるものの、他の情報はなにもない。「版画」は原版を刷るもの、その版画が偽造ということは少しわかりにくい。

 

記事を読んでやっとわかってきた。例えば東山魁夷。基本魁夷が自ら版を彫ったという理解はない。なぜに魁夷の「版画」が存在するのだろうか。

 

ここがまず、分からなかった。読んでいて、初めて状況が分かってきた。原画、というかもとになる絵は、別に画家がはじめから版画の原画として描いたわけではない。一枚切りのもの、画家はへたをすればその絵を何年も、時には十数年もアトリエにたてかけて「手を入れる」こともあるだろう。

 

そうした唯一無二のものであるがゆえに、その絵画は価値が高まる。1枚だけなのだ。これは「投資」にもぴったりだ、となる。

 

だが唯一のものであれば、当然その値は高価となる。一般に幅広く「売り捌く」ことはできないのだ。

 

そこで出てきたのが「複製版画」だ。

 

雑誌「版画藝術」No.193 P.11で編集主幹の松山龍雄氏は書かれる。

ところが、美術コレクションが一般にも拡がり始めた1970年代より版画ブームが起こり、その頃から著名な日本画家の「原画」をもとにした「複製版画」というものが市場に出回るようになってきた。

新聞では全く明確に書ききられてはいなくて、「とにかく偽造がけしからん」ということになっていたが、そもそも上記であれば、版画を作成するのは「作者あるいは遺族の許可をとった」複製業者(版画制作者)となるだろう。それがリトグラフシルクスクリーンであればあるいは手作業(手作業があればいいといっているのではないが)もあるかもしれないが、ジグレーであればインクジェット印刷であるので、これは複製機械の精度と再現性の問題である。

 

ここで難しいのは、例えば絵画はそれが美しいがゆえにまずは「所有者」に恩恵があるのだが、それを「資産」として「投資」して「転売」して「差益」を生む、ということも当然ある。これが市場というもので、それがあって美術市場が成り立っている。

 

無名の画家を「見出し」、誰も気づかないところから「投資」「援助」することで、将来性を購入する。これはいわゆる起業者を支援するのと似た構図となる。

そういう面があるため、そういう手法で市場が構築されている。同文によると、「複製」というと

(前略)ただ版画技法で原画をコピーしただけの商品なので、いつ頃からか「エスタンプ」と称するようになっている。エスタンプ(estampe)とは、フランス語で「版画」の総称である。美術文化の国フランスの香りがする聞きなれない用語で「複製」感を弱めているわけである。
  引用 同上

と松山氏は書かれる。なるほど、英語ならともかくフランス語は私もチンプンカンプンだ。大学の授業で答案に全部答えを埋めて、0点だった男だ。

 

エスタンプ、といえば版画全般なので、嘘ではないし、聞いたひとは多分初めて聞くことばである。なんだかありがたい手法のような気さえしてくるではないか。

そうした「ごまかし感」が気になるのだ。複製というと売れないのでごまかしているわけだ。

 

百貨店の催事では、原画も多数掲示されていた。棟方志功の作品も7-8点あった。すべて原画であった。これを見るだけでも、眼福であった。山下清もあった。味があった。

そして特に現代作家。これはそもそも複製が前提の作品が多いと感じた。いわゆるシルクスクリーンリトグラフがそもそも初めから作家に選ばれていることが多いのだろう。

 

個人的にはジグレーは、その素晴らしい印刷技術を、再現性を愛でるのであればありである。だがたしかにリセールバリューはあるにせよ、そこは「エスタンプ」のごまかしが一抹入ったバリュー世界ではないのか。いわばごまかしがごまかされたものを作り、ごまかされたものが、ごまかす者となる。ミイラ取りが木乃伊、というやつだろう。

 

わかってやっている皆さんが、悪い、ということはできないかもしれないが、その拠って立つのが複製であることをはっきり言いきらない「エスタンプ」であるのは、どうにもなんだかムズムズするな、とは、思っている。

 

(「正式」な「複製版画」とは、遺族の許可やあるいは作家本人のサインがあるようです。作家サインまで偽造すれば、これはまた別の問題となるのかもしれません。作家本人がサインしちゃえばなあ。。。とも思いますが、これはあるいは著作であれば著作権により遺族に権料が没後一定期間はいりますが、画家の場合は複製を認めることで、作家の没後遺族になにがしかの実入りをもたらす、という部分もあるのかな、という気もしています)