高校卒業時は、今後どうして生きていくか、ということに皆さんと同じく悩んだことを思いだす。望んではいけない方向として、漫画家、小説家、画家(というより美術教師、兼日曜画家)、イラストレーター、絵本作家、というものがあった。
すべからく、才能が必要で、できれば20代早々で才能の開花、代表作となるべき作品の上梓と世間の承認、が必要だろう、というのが合わせて思っていたことだ。
画家、というが絵の勉強をしたことはない。マンガを描いてはみたものの、人物以外はどうやら描きたくないようだ(特に背景)。そして正直、画力に問題がある。
ストーリーテリングはどうか。試しに書いてみたSF風の小説は未完であった。
うーん、難しい。
小説を書くには取材と熱意が必要だろう、と思っていた。書きたい、題材が必要だろうと思っていた。それがあまりない。
うーん。。。
そしていま、ここに居る。
どれだけ意欲が溢れているにせよ、胸の奥で何か疼いているにせよ、ものごとには具体的な始まりが必要なのだ。
そう、若い時に書けなかったが、その時は予感めいたものがあった。純粋に創作したいわけではない。生きていく手段として、自分が好きなもの、好きなことでなにかを生み出そうとしている。
そしてそれは、愉しくない。
無心に抑えきれず出てくる表現。絵にしても、文書にしても。今でいえばゾーンに入って出てくる創造物。
それがあってこそ、初めて人に伝わるものとなる。
それがない、今はそれを手段として、よすがとするべきではない。
それが結論だったようだ。自身による、感触。
主人公と自分をうまくシンクロできない小説を、私は読みきることができません。
すくなくとも、小説とはそういうものだ。もし自身で書くとすれば、もちろん小説の主人公と自分はシンクロしているはずだ。書いている私が、作中の”私”と区別がつかなくならねばならない。私が彼(あるいは彼女、あるいはこれ)であり、彼が私である、という。
そう思っていた。
面白いものに理由があると考えていることが、そもそも面白くないものしか作れない理由だ。
森博嗣 「思考」を育てる100の講義 2013 大和書房 P.53
面白いものを、作ろうとすることは、まずは全く、クリエイティブではない。そして、しんどい行為だ。作業である。楽しくない。
だが、面白いものしか売れない、面白くなくてはならない。そう普通は思うものだろう。だが、違うのだ。
森氏は続けておっしゃる。
ただ、無難な「受けそうな」媚びた作品になるだけだ。むしろ、理由がなければ新しいものになる、という手法の方が当たる理由がありそうだ。
同上
理由はいらない、というよりはむしろ害にしかならない。理由のない、新しさこそ、新しさだけが、受け取り手にそれとわかり、場合によっては愛され、あるいは反発される。
「媚」により無理やり創作されたものは、その遡上に乗ることはない。エンタメを楽しむ時間は有限なのだ。貴重な人生の一瞬なのだ。それがたとえ消費の時間であろうとも。
そんなことを、最近考えている。
(作者がたのしくてしょうがなくて(無理やり生み出してはいても)というものや、楽しんではいなくとも新しさを提供するものは、やはり味わってみるとわかる気がします)