夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

ものごとの、感触。

高校卒業時は、今後どうして生きていくか、ということに皆さんと同じく悩んだことを思いだす。望んではいけない方向として、漫画家、小説家、画家(というより美術教師、兼日曜画家)、イラストレーター、絵本作家、というものがあった。

 

すべからく、才能が必要で、できれば20代早々で才能の開花、代表作となるべき作品の上梓と世間の承認、が必要だろう、というのが合わせて思っていたことだ。

 

画家、というが絵の勉強をしたことはない。マンガを描いてはみたものの、人物以外はどうやら描きたくないようだ(特に背景)。そして正直、画力に問題がある。

 

ストーリーテリングはどうか。試しに書いてみたSF風の小説は未完であった。

うーん、難しい。

 

小説を書くには取材と熱意が必要だろう、と思っていた。書きたい、題材が必要だろうと思っていた。それがあまりない。

うーん。。。

そしていま、ここに居る。

 

どれだけ意欲が溢れているにせよ、胸の奥で何か疼いているにせよ、ものごとには具体的な始まりが必要なのだ。

P.90 村上春樹 騎士団長殺し 新潮文庫版 1部上巻

 

そう、若い時に書けなかったが、その時は予感めいたものがあった。純粋に創作したいわけではない。生きていく手段として、自分が好きなもの、好きなことでなにかを生み出そうとしている。

 

そしてそれは、愉しくない。

無心に抑えきれず出てくる表現。絵にしても、文書にしても。今でいえばゾーンに入って出てくる創造物。

 

それがあってこそ、初めて人に伝わるものとなる。

それがない、今はそれを手段として、よすがとするべきではない。

それが結論だったようだ。自身による、感触。

 

主人公と自分をうまくシンクロできない小説を、私は読みきることができません。

上村祐子 文庫版 イッツ・オンリー・トーク(絲山秋子) 解説p.182

 

すくなくとも、小説とはそういうものだ。もし自身で書くとすれば、もちろん小説の主人公と自分はシンクロしているはずだ。書いている私が、作中の”私”と区別がつかなくならねばならない。私が彼(あるいは彼女、あるいはこれ)であり、彼が私である、という。

そう思っていた。

 

面白いものに理由があると考えていることが、そもそも面白くないものしか作れない理由だ。

森博嗣 「思考」を育てる100の講義 2013 大和書房 P.53

 

面白いものを、作ろうとすることは、まずは全く、クリエイティブではない。そして、しんどい行為だ。作業である。楽しくない。

だが、面白いものしか売れない、面白くなくてはならない。そう普通は思うものだろう。だが、違うのだ。

森氏は続けておっしゃる。

ただ、無難な「受けそうな」媚びた作品になるだけだ。むしろ、理由がなければ新しいものになる、という手法の方が当たる理由がありそうだ。

同上

 

理由はいらない、というよりはむしろ害にしかならない。理由のない、新しさこそ、新しさだけが、受け取り手にそれとわかり、場合によっては愛され、あるいは反発される。

 

「媚」により無理やり創作されたものは、その遡上に乗ることはない。エンタメを楽しむ時間は有限なのだ。貴重な人生の一瞬なのだ。それがたとえ消費の時間であろうとも。

そんなことを、最近考えている。

 

(作者がたのしくてしょうがなくて(無理やり生み出してはいても)というものや、楽しんではいなくとも新しさを提供するものは、やはり味わってみるとわかる気がします)