「自閉症の僕が飛び跳ねる理由」を読んだ。
1991年生まれの東田直樹氏が13歳の時に書いた本だ。
現在はPCも使えるという氏だが、この時は日本語文字盤で1字1字示して作られた本である。
読んで、大きな、ショックを受けた。
自閉症への今までの思い込みが、ひっくり返った。
どこにそれほどショックを受けたのか。
発語がなく、語り掛けて反応もなく、意味なく飛び跳ねている姿から、
この子は知能が遅れている、と思っていたのだが、
知能が遅れていないのだ。外部のことを理解し、いわゆる”普通の”13歳、あるいはそれ以上の理解と判断を、その内部で行っている、ということに、だ。
だが、彼が内部でそのように理解していることは、外見からは全くわからない。だが彼は、”じっとして、といわれ、じっとしようとしても、なぜか身体が動いてしまう、全く申し訳ない”と思っている。
申し訳ない、と思っているのだ。だが、それは外部からは全くわからない。
自分の、手や足や、視覚や聴覚が、全くコントロールできない。聴覚は私は自分の耳で聞こえるものはそのまま普通に聞こえるものだ、と思っていたが、そうではない、聞き取りたいものをそうでないものを、脳がコントロールしているのだ。雑踏で相手が話す声が、注意すれば聞き取れる。だが、彼にはすべてが同じ音量で聞こえるのだ。雑踏でなくとも、エアコンの音と相手の声が同時に同じ様に聞こえる。
だが、彼は、自分には同じように聞こえる、いわゆる”健常者”には違って聞こえる、という違いを理解して、その差を伝えるのだ。わかりやすく。彼は違いを理解している、だが介護者は、違いを理解していないことが多いのではないか。あるいは”頭で理解はしていても”、エアコンの音がでかすぎて、指示の声が聞こえにくい、という彼の事象にぴんと来てはいない。
なので”なぜ指示通りできないの”となる。
いや、聞こえてないのだ、エアコンの音と混ざって。
がっかりさせてすみません。ほっておいてほしいわけではない、かまってほしいのです。
その想いは、生まれてからずっと、一度も理解されないままの人が、ほとんどであったのだろう。伝えられないから。だが、伝えられないだけで、心では思っている。ヘレン・ケラーは特殊な例ではなかったのだ。
自分のことを思いだした。僕は小学校4年位で、ほぼ今と同じようなメンタリティを獲得していた気がする。もちろん身体の発達はまだ。社会性もまだまだ。だが、その中にある気持ちは、いまの気持ちとほぼ同じである。あとの機能は、個別で、ただ、SPECとして伸ばしただけだ。
だが、外からは、先生からは、子供として扱われる。いや、子供だけど、中身はたぶん大人と変わらない。そう、感じていたことを思いだす。
多分、女性の場合、もっと早いだろう。下手をすれば幼稚園児で、ほぼメンタルは完成するのではないだろうか。
それと、多分、同じなのだ。だが、身体のコントロールが、非常に困難なので、外部の人はいつまでもわからない。
このことは、正直、まったく予想していなかった。
わかっていない、と思っていたのだ。
まだよく消化できてはいない。だが、いままでの”知能指数”計測が、手や口による反応を基にしているのは、根本的に間違っているのではないだろうか。
手や口での表現は不可能だが、精神面での発達、いわゆる真の”知能”の面では、遅れるどころか同世代よりも進んでいる、そのような”自閉症”の人々が、どのように社会で認識され、生きてゆくのかは、もっと違った形が必要なのかも、と思っている。
(思い込み、というのは、さまざまなところにありますね。そして、気づきにくい)