夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

人のくつろいでいる様子だけを見てその人となりを理解することはできない。

人のくつろいでいる様子だけを見てその人となりを理解することはできない。

 

これは、ダニエル・L・エヴェレットがその著書、「ピダハン」で述べていることばだ

この語が含まれている箇所を引用してみる。P.154だ。

 

ジャングルにいる彼らを見て、わたしは村が彼らにとっては居間にすぎないこと、たんに手足を伸ばすためだけの場所であることに気づいた。人のくつろいでいる様子だけを見てその人となりを理解することはできない。ジャングルと川はピダハンの職場であり、工房であり、アトリエであり、遊び場だ。

 

ピダハンの村に住んで、ダニエルは村でのピダハンのふるまいから、彼らを理解しようと自然に考えていたことに気が付いたのだろう。だが、。村はくつろぎ、家族と楽しく接し、食事をし、眠るところだ。眠りについては、本書の原題、「眠るな、蛇がいるぞ」で分かる通り、この地では長時間熟睡することは危険なのだが。

 

全員がツールドフランスの選手のような体形のピダハンの男性は、自らをたのみ、森や川で食料を狩る。その食事の70%は魚だという。一日に4時間から6時間漁をすれば、24時間一家を食べさせるために充分なタンパク質が取れるという。家族は基本的に核家族だ。平均寿命45歳であるピダハンは、祖父母の存在は知っている場合があっても、曾祖父のことは知らない。そのことが話題になることもほとんどない。曾祖父が、実際に目の前にいない人々だからだ。

 

ジャングルには、目に見える存在としての“精霊”がいる。それは例えばジャガーだ。通常我々が”精霊“というと、身体を持たない別世界の存在、という印象を持つ。であれば、これを”精霊“と呼ぶことは誤解につながるのかもしれない。しかしいずれにせよ、例えばジャガーについては、彼らは森の仲間、同じ動物の一種、とは考えないのだ。そこには深い、哲学が潜んでいるようだ。

 

ジャングルには危険が多い。炭水化物としてマニオクという植物の根(アマゾン原産で青酸を含むので、他の生物はよりつかない。世界で最も消費されている食物の一つということだが、初めて聞いた)から作った粉と魚をまぜて、彼らが住むきれいなマイシ川の水と混ぜて飲んでいるという。そのマニオクや、木や、獲物を持って、危険なジャングルを歩くことは、アメリカ人のダニエルにとって大変なことだった。彼らのジャングル行きに同行することで、ダニエルは彼らの生の一部、生きるために”稼ぐ“戦場が、ジャングルや川であることを実感するのだ。

 

それはお互いの理解と尊敬につながる。

 

人種が違うと、お互い相手の人種への思い込み、というものが抜きがたくあるだろう。そうしてそれはなかなか抜けないのだろう。
ダニエルは30年ピダハンと過ごすことで、深い共感を持ってそれを乗り越えることができたのだ。

 

しかしそれはキリスト教伝道者であった彼を棄教させることになった。宣教師の娘であった妻の理解を得ることは難しかったのであろう。子供との関係も困難であったろう。
だが、そのことを予想し、苦難の末告白することが、彼には必要であった。

 

しかし考えてみれば、言葉の通じない相手の言語を理解し、聖書をその言語に翻訳する、という目的以外に、ピダハンと長期に接触し、その文化を知ろうとする契機はほとんど持つことができなかったであろう。そういう意味では伝道者であったことは、この出会いの必須条件ではあったのだ。

 

そう考えると、その経緯と結果は、皮肉なものだが、だがこうした芳醇な文化の把握がなされ、我々に伝わったことは素晴らしいことだと、思える。


(ピダハン、とはまさに“リアルエデン”の住民のような、知恵をもった部族だと思えます)

f:id:mamezouya:20210823141918j:plain