死が人間の魂を完全に破壊するなら、その場合には死んだところで本人にとってはなんでもない。そうでなければ、死ぬことによって魂は不滅となる場所へと運ばれていくのだから、その場合、死は好ましいものとなるのだ。このどちらかでしかあり得ない。死後は、「不幸でない」か幸福かのどちらかであるのに、何を恐れることがあるだろう?
自然が人間に肉体を与えるのは客人としてほんのいっときとどまるためであって、住処にするためではない
メメント・モリ、ということばがある。
死を想え、と訳される。
日本語に訳すと、いかにも”訳しました”という感じになる言葉だと思う。腹落ちしていない、というのか。
同じ様な言葉に、”ノブリス・オブリージュ”がある。
生まれながらにして持てるものの責任、といったような意味だと理解している(ちと意訳気味)。
サンデル教授は、たまたま生まれついての境遇(頭脳、肉体的属性、境遇、美醜)により有利な立場にあるものは、それがあくまで”たまたま”であることを意識すべきであるし、”たまたま”不利な立場にあるものを”努力不足”ということだけで差別することが分断の大きな原因である、とおっしゃったと理解している(個人的理解)。
カズオ・イシグロ氏は、自分に類似の文化的属性を持った人々とだけ語りあえて交流が容易であることに意識して、そうではない人々の理解と交流こそが断絶回避の糸口になる、とおっしゃったと理解している(これも個人的な理解)。
人は生まれている状況が共通で、ひとりで生まれ、ひとりで死んでゆく。元気であれば、長生きする保証があるわけではもちろんない。死は万人に、もっと言えば変化を死と類似のものとすれば、万物は流転する、という形で変化して"死んでゆく”のだ。
そのことを考えたくない。それが人間だ。
そうなのだが、でも考えておいたほうがいいよ、といういわば親切なことばこそが”メメント・モリ”なのだ。
準備しておけ。ある程度年令がいったら今日にでも。その気持ちが必要なのだ。
そういわれて、頭ではそうなのだろうと思っても、なかなかそう思いたくはないものだ。
だから繰り返し、感じなければならないだろう。嫌でもなんでも。
そしてそういうことを考えつつ、いま一応その中にいる”生”、生き物たちの生が、すこしでも良くなっていくのは、やはり一番重要だろう。
だれもが、言いたいことをいう権利を、あるいは言いたくないことを言わない権利を、自由に持つこと。
誰もが責任を押し付けられることなく、自ら欲した内容での責任を負うこと。
個人的にはそんな世界が、まずはいいような気がしている。
(人はかりそめのこの世の客人、というのは、その通りですね)