森本あんり氏の著書を読んで、
アメリカではそもそも様々な人種がおり、それぞれのバックボーン、とくに宗教面や権利や例えば最近難民としてやってきて言葉がうまく話せない、などの差異がいわばあって当たり前の社会であるので、
従って社会の中で人々はお互いの違いがあたりまえで、心から発する意見や希望が同じであるほうが楽に決まっているのだが、
同じになるわけがない、
という社会における寛容を考えた。
そこでいう寛容は、それを持っていないと、より本質的で壊滅的な対立になってしまうので、”仕方なく”行うものだ、ということを理解した。
あなたの意見には全く反対だが、そういう意見をいうあなたの権利は徹底的に守る。
お互いがそのように思っていることがわかっている。
つまり心理的安全性を確保する。
そのうえで「安心して」違う意見を言う。
違う意見を言っても「恨まれることはない」。
そういう心理的安全性があって、初めて人は本音の、心からの意見を言えるのだ。
翻ってこの日本ではどうだろうか。
言論空間に、心理的安全性はない。
なので、意見は「匿名」にならざるを得ない。
なぜなら違う意見をいう事で、実際に身に危険が起こるりうるからだ。
同調圧力、の圧力とはそういうものだ。
圧力、とは「従わなければ村八分だ」ということだ。
共同体の機能を享受することを拒否することだ。
これがジャングルのヤマノミであれば。
飢饉の際にも備蓄食料を分けてもらえない。
天変地異があっても、助けもこない。
つまりは「緩やかな死刑宣告」であるわけだ。
同調圧力、とは反するものへの「私的死刑宣告」に繋がる。
そこで、あえて発言することは、心理的不安、のなかで、潜在的にストレス(いつか物理的に、すくなくとも心理的に、攻撃されるかもしれな、というおびえ)を抱えることになる。
ここ、同調圧力の国、日本で、なぜ私が匿名でしか発言できないのかという理由は、そういうことだろう。
危険なのだ。
これを変えてゆく、くつがえすことは容易ではないだろう。
なぜなら「村の住民」を装って過ごすことは、基本安寧の中にいることであるからだ。
言いたいことを言い合えない、という気持ちがあるのだが。
いわば「ぬるま湯の、気もちが悪いなかでの」安寧なのだが。
ではこれから変化するのか。
たぶん、緩やかに変化してゆくだろう。
まずはWEBという「精神の黒船」による「無理やりな精神の開国」である「グローバル化」によって。
自国経済だけでやってゆけなくなるのだ。
少子高齢化→移民
→多人種、他国への出稼ぎによる国民の精神・内面的変化
そうした変化により、もうどうにもこうにも、同調圧力ではやってゆけなくなるのだ。
まあ、だいぶ先にはなるだろう。だが多分100年後には相当人々の意識は変わっているだろう。
いやいや変わっている。無理やり変わっている、ということだろうが、結局変わるためには「諦念」しかないのだから。
理解してから理解される、というのがある。これは最終的に「理解される」ためのテクニックという面がある。タクティクス、戦略である。
理解することが、結局自分の理解を求めていることで、利己的である。人格的にいい、というわけではないが、理解しようとすることは「人格がいい」と思ってしまうことであり、そういう意味では「ずるい」と思われる面があるだろう。
だが意識して、戦略としてやることは、そもそも理解せずに押し付けるよりも相手にとってもいいだろう。なので、ベストではないが、ベター、といえる。
同じように、やさしくしてからやさしくされる、ということも考えられる。
考え方は理解のときと同じだ。
だが、こうしたことをすべての人が理解していれば、そこにはもう「同調圧力」はいらなくなる。つまりは、「相手が利己的にふるまっているがゆえに安心できる」ということだ。
これはアメリカの、異人種同士のぎりぎりのせめぎあいの中でいやいや生まれた「寛容」の考え方・態度に、
すこし通じるものなのかもしれない。