ミシェル・フーコーが『監獄の誕生』で教えてくれたのは、権力関係とは煎じ詰めれば「見るもの」と「見られるもの」の位階差のことだということであった。(中略)「パノプティコンの主要な効果は、拘禁されている者につねに『自分は見られている』という意識を抱き続かせることである。それによって権力は自動的に担保されるのである。(同書32%)
昨日引用した、内田樹先生の「期間限定の思想」から、権力についての考察である。
まさに「卓見」とはこうした思想に対していうべきであろう。
「見られる立場にいる」こと、これは日々の生活でおおく感じていることである。
まずは世界から、日本から、社会から、「見張られている」感じがある。
特にコロナで「相互監視社会」に我々日本人がいることに改めて深く感じられた。
戦時中の「我々が苦労しているのだから平等に苦労しないやつは村八分だ」とする「隣組」の仕組みが、仕組みではなく、日本人の刷り込まれた心の原風景として不都合な真実的に脈々と残っていることを実感させられた。
これはいわゆる「自由からの逃走」であろう。自由であることは矜持と決意と意思と苦労が必要なのである。なので「自由でいることはめんどさく」、なので「自由から逃走したくなるのが、まあ普通の人間心理ですよ」というのが「自由からの逃走」という本が提示していることだ、と理解している(個人的な理解です)。
私は「議論をしたがることは悪」という考えを内蔵している。議論する奴はとんでもない、というわけだ。だがこれも森博嗣さんの本を読んで感じたのだが、「相手を信頼できれば、議論を議論としてすることはむしろ必要である」「信頼できる相手であり、自分であることが重要だ」ということから、数段未分化、未熟な残念な段階に私はいるのだ、といわねばならぬだろう。
まずは例えば学校で、「自身にとって相いれない意見を持つ人であっても、そのことで相手の人格を否定してはならない」ということを徹底的に教えるべきであろう。これは日本の学校では全く教えられていないし、教えたくない、という心理が裏にあったりする。
異端者は排斥するのが当たり前だ、という心理が裏にある。だが、なりたくてなる異端ばかりではないのである。そのことを深く感じて、意識の前衛に出さねばならぬのである。
(私、全然できてないんですけどね。。。(´;ω;`))