夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

嫌われているか、好かれているか。

 

しかし、文系の人たち、あるいは、多くの日本人がこうなのかもしれないが、彼らは、結局は「好かれているか」「嫌われているか」で意見というものを処理してしまう傾向を持っている。
P.122 森博嗣 小説家という職業

森博嗣氏の文章を読んで、森氏は批評こそWELCOME,違う考え方に出会えることこそNET世界の醍醐味であり、創造の源泉でさえある、とおっしゃるのだが、

私は特に森氏のご意見に反対する感想が出てこない。「その通りだ!」という感想しか出てこないのだ。

そう思わせるために書いているので、そう思って当然だ、と森氏の側ではなってしまう。しかし、素直にそうとしか思えないので仕方がない。

勿論感じ方は違う。大変に違う。森氏の文章を読むたびに、自分が文系であるなあ、ということをとことん感じるばかりだ。

今回引用したものも、その通り、という言葉しか出てこない。

意見とは、意見を言った相手の気持ちを推測し、それが「文句」「因縁」であればいかに発した相手の気持ちを和らげるかを考えねばならない対称である、といままでずっと思ってきた。自然とそう感じてきた。

そう思うのは、私が会社の総務部門に長くいたことが原因かもしれない。外部から、あるいは社内からやってきた「ご意見」は、まずは受けて、まずは謝るところから始まる。基本「クレーム」だからだ。

そう、意見=クレーム、と認識している。してきた。してゆきそうだ。

一体これは、なぜだろうか。

多分、自身が「意見」を言う時の、自分の心情をベースに判断しているからだ。そんなときの気もちはこうだ。

「なんとかガマンしてきたが、これはもうガマンが出来ない。もともとおかしいことはわかっていたが、揉めるのもなんだからぐっとこらえてきた。しかしもう我慢できないレベルだ。嫌だけど、言うしかない!」

これである。沸点を超えてから、「意見する」。

そして、意見してくる人も、同じであろうと推測するわけだ。

森さんのご意見(”ご”を付けましたが、揶揄する気持ちはありません)を読んで思うのは、理系の頭脳は、理系の会話は、ある意味いいなあ、ということだ。丸いことを丸いとあたりまえに言うし、言ったことで誤解されることがないのだろう。

だがそれは、同じ理系脳同士でのことではないか。

やはり、文系、およびこの日本国、は閉じた空間だ。まずは日本語。外国人のメンタリティで日本語話者は(日本に生まれる、等は除き)ほぼいない。日本語を話す=ほぼ似たような範囲(もちろん年代等のGAPはあるがそれでも)で物事を受け取り判断する人々だ、ということが前提である。特にクレーム対応は。

そこでは「なだめ」と「すかし」が必要だ。「いかにも共感している風」な会話が求められるのだ。

そこでは、こちらの意見は求められない。ようはグチを言っているのと同じ。愚痴は答えを求めない。相手が聞いてくれて、共感の合いの手だけが必要なのだ。

だが、それでは森氏が指摘するとおり、「事態」を「クリアに把握」し、その状況をよくしよう」という流れは皆無である。そもそも「意見」がそのような意図で発せられることが、「一般」では、「市井」では、「文系同士」では、「日本人間」ではほぼないと思わないと、いけないからだ。

それでは、ほんとうにまずいから意見をしている、という理系脳の貴重な提案が、無駄になってしまう。森さんはすべてわかって、「全然怒っていないが怒っているふりをする」そうだ。なんとか事態を進めるために。。。

森本あんり氏の著作を読むと、特にアメリカでは、さまざまな人種、移民等がカオスのようにまとまって暮らす言語空間こそがアメリカである、という印象を受ける(個人の感想です)。

そこでは、「そのような納得のいかない、下劣な意見には全く賛成できない」のだが、「そのような意見であるにしろ、意見をいうあなたの権利は100%認める」というのがまた、アメリカだそうだ。嫌々そうなのだが、そうでしかやってゆけない、という意味で。

やはり日本は同質の人が多すぎるのだろう。それが悪いとかいい、ではない。そういう空間なだけである。アメリカが、そうであるように。

しかし、アメリカ的ごった煮空間でいいのは、とにもかくにも、どんな愚にもつかない意見であっても、とにかく意見をいうことが全面的に保障されていることだ。

そして、「そんな意見を持っている奴は敵だ」という「敵認定」をしないのがいい、という認識があるだろうことだ。要はノーサイドだ。どんな主張のやつでも、それはそれ、付き合うのは別だ、という感覚だ。

勿論、生理的に、そんなことをいう奴とはやっていけない、という感覚もあるのだろう。だがそこをそう言っていたのでは、みんなが違いすぎてやっていけない。そういう学びが基本的にあるのだろう。

もう一度いう。それがいい、とか、日本がだめ、とは言えない。ただ、そういうものなのだ。

しかし、「罪をにくんで人をにくまず」という奴、あれがもう少し日本でも必要なような気もしている。基本ほとんどの人(含む私)がその箴言を聞いても、「鳩が豆鉄砲をくらう」ようになってしまうのだから。

罪を憎むとは、その罪を犯した人を(個人的に)憎むことだ。

これが私たち大多数の、スタンダードな気持ちなのだ。そこで思い出すのはイエス罪なきもののみこの罪人を石で撃て。

やはり基本はそこに行くべきであろう。

(どんな意見を言っても嫌われない空間、というのは、憧れますねー。まあ多分に「隣の芝は青い」状態なのかもしれませんが(笑))