夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

酒について。

各種文化の中で酒が占める位置はいろいろあると思う。

英米文化では、食事は基本味なしで焼くだけ。そこにタレやソースを付ける。そして飲むものは基本ビール、そしてウイスキーだろうか。量を、飲む。

フランス文化では、ワインである。食事に沿って食事にあう、厳選した酒を食事の伴奏者として飲む。ワインのがぶ飲み、というのは多分あまりないのだろう。

翻って日本はどうだろうか。日本酒は主食であるコメから作るものだ。感覚的には米を収穫したのち、コメを作った集団でコメから作った酒を飲む。これはやはり儀式、儀礼の中にあるものだろう。

明治以降、西欧文化ともに各種の酒が入ってくる。これは英米式ビールも、フランス式ワインもあるだろう。日本古来の酒もある。各種文化を貪欲に取り入れよう、という意識は、飲酒の面でもあったのだろう。「文化を学び、文化を食べて、文化を飲む」。

だが古来日本は「村祭り無礼講」の飲み方だ。村が会社になっても、会社帰りの上司との飲み会は村祭りの延長だ。そこでは無礼講、より酔うことが「組織に全身でチャージしている」感を生む。一気、というのもそこから生まれたものだろう。

そこでは、日本酒も、ビールも、ワインも、ウイスキーも、まあとにかく何でも「酔っぱらうもの」と一緒くたにされる感じである。味が違うな、度数が違うな、というだけである。

そしてそれが、日本の文化のありかたの原型、のようなものなのだろう。

最近のコロナ、そして酒を強要しない、という社会の変化は、やはりある種の進歩だと思う。無理やり「疑似村民」に、みんながなる必要がなくなってきているのだ。

昔の村民スタイルを懐かしむ向きもあろう。集団でことにあたるのが成功率が高い、と自然に感じる脳であればなおさらだ。だが今は多分人を無理やり集団にする機能が「酒」から「WEB」に代わってきている。

メールでWEBアドレスが送られれば、飲み会でなくとも人は集まる。

集まってリモートで飲んでもいい(やったことないんですが)。

人が酔ってもいいし、素面でもいい集合形態を自然に持てるようになったこと、これが変化であり、進歩、といえるのではないだろうか。

(昔は飲み会が「真の会議」だったので、昼間の会議の「建て前」はそれはそれでよかったのでしょうね。。)