どちらかというと、今まで新幹線では時間を無駄にしていた。
もちろん朝か夜かで全く違う。私はものすごい朝型であり、一番頭がさえるのは、4時起きで水を飲んで目薬を差したくらいのところだ。
一方夜はほとんど頭が朦朧としており、なにかを生み出すどころかなにかを考えることも困難だ。完全に受け身である。
コロナ前は新幹線での出張がけっこう多く、帰りに檸檬堂などを飲んでしまうと、東京ー名古屋1時間30分のうち後半は爆睡、しかし名古屋でなんとか起きなければ、と思う中途半端な爆睡、という感じが多かった。
檸檬堂はうまい。いま糖分をあまりとらないので、檸檬の酸味と炭酸とそのあとの酩酊は、安価なリラックス法となってしまっているのだ。
勝間和代さんのメルマガなどを読み、ストロングゼロは麻薬のようなものだ、というご意見を読み、そういう視点を得た。社会人は酒を飲むものだ、という刷り込みは、ここ日本ではたぶん田植え→村祭り→無礼講、の遠い記憶としきたりから来ているのではないかと思っている。
酒を通すと、相手の人格の隠れた部分がしぜんと露呈する。一方でこちらの隠れた部分も開陳する。さらけ出した後で、双方の集団や関係性の中での位置が決まり、「安心する」。
こんな構図があるのだろう。
自分のためではなく、組織のために酒を飲んでいた。
外国にゆくと、例えば外国人はエレベーターの中であいさつするなどしてマナーがなっている、という気がする。だがあれは、挨拶することで相手の反応を見て、一瞬で相手が安全な人間かどうかを判断しているのだと思う。
なので海外ではマスクが嫌われる。相手の表情が見えないと、相手がどのような人間かがわからない。まして多種多様の人種の人間が歩いている。
日本では、まあ、だいたい日本人しかいないわけだし(いまはそうではないにしろ)、いちいち相手の反応を見て危険予知する仕組みと心はあまりない。これは基本スペックがそうはいっても似ているからだろう。
なので、マスクはむしろつけてもらい、感染を予防することのほうにプライオリティを置く。これが日本でマスクが半ば強制された感がある理由であろう。
(結局安全第一、ということですね。どのように自身の安全を担保するかという)