夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

同調圧力的社会は、自動である程度人の行動が制限されるので、個人的に例えば困った人の言葉を聞くことは求められていない、という感覚があるのだが、果たしてそれでいいか。

同調圧力が大嫌いだ。

だが、それでもそれが存在し、DNA的にも刷り込まれていることを考えると、この「日本」という社会をできるだけ条件よくキープする「社会のDNA」的なものなのだ、とも思う。

だがこの「同調圧力」、孤独の創出と大変親和性が高い気がするのだ。

正確に言おうとすると、農耕社会が農耕社会としての姿をいまの「WEB社会」に変えつつあるなかでの依然として心の中にDNA的にある「同調圧力」が、知らない人との会話を阻み、結果多量の「孤独者」を生んでいるのではないか、ということだ。

孤独が短命化を招き、あるいは社会への不平不満を抱えて暴発するものを増やす、という傾向はあるだろう。

そこでの孤独は、もうどこにも逃げ場がない、孤独となる。

 

同調圧力社会は、その機能故、知らない人とことさら関わらずともそれほど危険性はない、となっているからだ。

自分の安全のために、わざわざ人に声を掛けなくともよいのだ。

 

海外へゆけば、例えばエスカレーターに乗った際にも、同箱した外国人に挨拶されることがある。

これは彼らがフレンドリーなのではない。声をかけ、反応を得ることで、相手が安全かどうかを(なかば癖として)確認しているのだ。

そう考えると、マスクが海外で不人気なのもわかる。顔が見えないと、相手がなにをするかお互い不安なのだ。

翻ってこの日本。マスクをすることと、同調圧力社会で過ごすことは、大変に親和性が高い。

 

イメージだが、海外では「リスクヘッジ」として孤独な人間に声を掛ける癖があるのではないだろうか。あくまで自分のため、相手の将来的な暴発をさけるため。

日本で孤独が発生しやすいのは、こういう理由もあるのだろう。同調圧量に、放っておかれるのだ。

(孤独の気配に、自らのリスクのヘッジのため、日本人が声をかけてゆく、という方向でしょうか。これは相手への親切ではないのがポイントです)