夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

車の来ない道路を渡ることと、同調圧力について考えてみる。

今朝の体重は65kg、体脂肪率は5%。本当か?というところだがトレーニングをして1-2日は低めにでるようだ。

 

私は近眼であり、注意力散漫だ。

昨日車の来る気配が全然ない道を渡っていたら、向こう岸((笑))に警官が2名ほどいて、あぶないだろ、と叫んできた。

考えてみると、こうして強い調子で言われることが最近なかった、ので、少し混乱した。そしてあんまり謝っていない口調で、何度も謝りながら((笑))警察官のマスクの上の目を見た。

すこしだけたじろいだ気がした。

 

まずは内容より、口調に反応したものだろう。

客観的に自分を見ると、このような即反応をすることは久しぶりですこし面白く思った。

やはり自分は、動物界の一員であり、「危機」があると即反応するタイプなのだな、というところである。

ちなみに、まったく車がこない、気配もない道路はいつも渡っているのだが、ネットで検索してみると、法的には処罰される可能性を否定できない、ということだ。

私は歩行者優先で、車がこない道路は渡ってよし、と考えていたのだが、法律的に考えると、渡ってもよい、としてしまうと事故があったときに歩行者の過失を問えないので、こういう設定にせざるをえないのはよくわかるところだ。

いままでも、まったく車が来ない道路を渡っていて、信号待ちのパトカーに注意されたこともある(笑)。

ここでの学び。

車が来ない道路をわたるのは、自己責任。過失を問われうる(あたりまえだ)。

パトカーや警官がいないかは、なにかいわれると気分がわるいので、すこしだけ気をつけることにしよう。

 

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さて、車の来ない道路を渡っていて警官に怒られたという話をしたのだが、

海外に行くと信号はあまり守られていない。

これは私が海外かぶれだ、というところもあろうが、なんというか日本における同調圧力?の問題にすこし関連している気がする。

私はいまでも車が全くくる気配がなければわたっているが(警官がいない場合)、これには賛否両論があるだろう。ここ日本ではたぶん否定がほとんどかもしれない。

たしかに、赤で渡っているのを幼児が見たら「わたっていい」とまなんでしまい、幼児であれば車がくるかどうか判断が不十分だからその学びはリスキーだ、ということは思うのだ。

なので、そういう子供が待っている場合は、こちらも極力待つようにしている。

だが、一方で、本当はやりたいことを同調圧力でやりにくい という状況にあるとき、個人的には同調圧力に屈しないようにしていきたい、と思っている。

この「車の全然来ない赤信号の歩道で、警官も、いたいけな幼児もいない場合には遠慮なく渡る」という行為の裏には、皆さん同調圧力に屈してんじゃないのか、という問題提起の気もちが裏にあるのだ。

いや、急いでいない、信号で待つのはよいインターバルだ、とおっしゃる方もいるだろう。だが調子よくずんずん歩いている、どちらかというと移動というよりエクササイズとして歩いている、というキブンでいるとき、車が全然来ないところで、事故にあったら過失をきちんと認める前提で、渡る判断をするときに「同調圧力」を感じても意地でも考慮しない、ということは、個人的にはありだと、思っている。

勿論そのことを他の皆さんに強要する気はない。気はないが、「あなたのまわりの同調圧力には極力抵抗しませんか」という提案はおずおずとさせてもらいたいところでもある。

勿論、違法行為はけしからん、とおっしゃられるとぐうの音もない。おっしゃる通りであると全面降伏することにやぶさかではない。

いずれにせよ、やりたいことを同調圧力でやらない、という個人としてのさまざまなシチュエーションで、できたらNOと言っていこう、と

個人的には思っているのだ。

同調圧力の嫌なところは、圧力を発している人ではなく、それに屈しつつ、お前も屈しろよ、といういやな汁を出している人がいるところです。自分が屈していることによる卑屈感を減ずるために、人にそれをむけるなよ、というところですね。その行為にはとことん抵抗したい、という気持ちがあります)