風刺や平等や自由のこと。
ちと重いテーマかもしれないが。
個人的なざっくばらんな感覚では、
実は風刺は嫌い。
実は、平等は必要だとおもうが、だれかが考えればいい。
自由は”快適な不自由”と比すると、ちと面倒だ。
という感覚がある、本音の部分で。
だが、それでいいのだろうか、とも、最近すこし思っている。
社会、日々過ごす環境や空気(実際の空気ではなく、雰囲気)を将来的にもすくなくとも悪くはない、絶望で一杯ではない方向にすることを、考える必要がある、とすこしだけ思っているからかもしれない。
自身や家族の生活でいっぱいいっぱいだ。そうであれば、そのなかでサバイバルするのがそもそもやるべき唯一のこと。
と思ってやってきた。まずは目のまえの食事に拘る。
そういうことだ。
とにかくなんとかゴハンをGETせねば。
自身の生まれついての性格が、勤勉ではなく、丁寧ではなく、どうしようもなく面倒くさがりで、オタク気質で。
どうやら世間でメインストリームにいらっしゃる”あらまほしき社交的で運動の出来るひとびと”とは
本質で正反対(真逆ですね、今は)である、としみじみ感じてきた自分であるので、
これは、余裕ないぞ。
その印象が、就職時のものだった。
自分なりに、自分を律してきた、ということかもしれない。
だが、律する、とは”したいことをしない”ということだと思っていた。
多分、本当はイコールではないのだ。だが、イコールである部分もある、イコールにしとけ、と押さえつけるドクサが、ある。
自らを押さえつけ続けることで、自身の中で自然発生する”勝手なルサンチマン”でもって、その反動的気分でもって、”自分FIRST"でやってきたように、思うのだ。
よく引用させていただく、そして正確かどうかも定かではない、チャップリンの”愛と勇気とサムマネー”。
その”サムマネー”をGETするのが、難しい人=自分、ということでやってきた。
いまもそうだろう。より、そうかもしれない。
だが、家族をもち、子供がいれば、自身の散華後((笑))、の社会、というものも、考えることがある。
そこで初めて、周りをおずおずと見る。
風刺は、耳に快いものでは無く、自らしたいことではないかもしれないが、それをする、という行為の存在自体は、むしろ積極的に認めるべき。
平等は、みずからと真逆の条件で生きる者たちと、その考えをお互い否定せず、いやいや、むりやり、ギリギリで維持すべきものだ。
自由は、自由であるための不自由さもまた、時には必要だ。”気楽な不自由”は気楽でいいが、その”気楽さ”を餌に、独裁がやってくるかもしれない。そしてその“独裁”とは、だれか個人の悪意ではなく、なんとはなしの全体の雰囲気のことであるのかもしれない(独裁、ではなく、”独裁的”かもしれない)。
というような感じを持っている。まだ、自分の考えの中で、上手く整理は、できてはいないのだが。
(池田晶子さんは、1000年後の人類に向けての言葉を日々発してらっしゃいました。そのこと自体はすこしく滑稽であるような体であることも、ユーモアを交え自覚つつ、だがしかし真剣に、発してらっしゃいました。そのことの尊さを、感じます)