夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

(独自意見)女性脳の人は恋愛ものが好きで、男性脳のひとはバトルものが好きである。

いまは男性だ女性だ、ということで分けて論じることはあまりよくないのかもしれない。

ということで、タイトルを一度書いてから「脳」の文字を入れてみた。要は自身をどちら側の「性別」でみているか、ということを意識した。

まあ、そのことが成功しているかどうかは不明であるが、最近読んだ村上春樹さんの文章で(多分「村上さんのところ」だったと思う)小説を読むことは隠微なもの、つまりはわざわざ皆さんに声高に開陳すべきものではない、というご意見を読んで、すごく納得した。

納得したとはつまりは、小学校時代以降、「本はできるだけ読むのがいい」と言われ、運動神経0で本ばかり読んでいた私は、その点では自分は学校にFITしているな、などと思ってはいたが、私が読む本は基本エンタテイメントであった。

だが、そんな本であれ、いろいろ読んでいると純粋エンタテイメントではなく思索的なものもあるし、同じ作者、同じジャンルでもいろいろ毛色が違ったりする。そこから「芋づる式」で読んでいくことで新しい世界に繋がる。

そんな経験をしていると、本を読むことはとても楽しいのだが、学校で推奨されてもいる「読書」をしている、というわけで、あまり人に隠さねばならない、ということを思わなかったのだ。だが、読んでいて、これは隠したいなあ、ということはある。

映画、などもそうであった。今では映画はスマホで個人視聴するものであるが、家のテレビで見ていると、これは一人で見たいなあ、という感じになることもある。

貧乏もあり、映画好きであるが今まであまり映画を網羅的にみることが出来ていない。

映画にしても、本にしても、個人的な感覚であるが、「女性的感覚」があると恋愛ドラマが皆さん好きなのではないだろうか。私の場合は見だすとはまるのであるが、男性が自分とは違うタイプだな、と感じる場合の恋愛ドラマにはあまり食指が伸びないようだ。

一方で、単純な格闘や、格闘系・アクション系のドラマは大好きだ。考えてみれば当たり前で、恋愛系であれば、男性に自分を重ねられなければ自身が失恋したような気になるし、アクションであれば自身が戦っている感覚がするからだ。

だが、そういう「脊髄反射的」「DNA的」反応に影響されてばかりでは実は似たような物語ばかりに出会うことになるだろう。

時には意識して、「自身があたかも女性キャラになったような気もちになってみて」映画や本に接してみるのもいいかもしれない。

そして「DNA的」選択には、どこかその裏に、「男性であればこのような気持ちでいなければならない」という強制が潜んでもいる。その「見えないくびき」を意識し、自由に、なんでも、自身に合った物語に接してゆきたい、という感じも、いま少ししているのだ。

源氏物語、とかですかね。。)