本日朝食前体重62.2kg、体脂肪率はちょうど10%であった。
金土日とほとんど外に出ていない。金土は雨だったが、昨日は天気が良かったのだが、作業は玄関先の草刈り枝払いだけであった。
なので、運動量が少ないと太るのかと思ったがそうでもない。もちろん週末は61.9kg位であったので300g程度増えてはいるのだが。
最近は昼食に加え、朝晩も米を摂るようにしている。
「自分と世界」と人は言う。見える世界が先に在り、それを自分が見ているのだと、こう思うわけである。しかしこれは勘違いだとわかるだろう。世界は、視界は、必ず自分から開けている。自分が世界の開けである。自分が存在しなければ、世界は存在しないのである。だから、「自分と世界」なのではなくて、「自分が世界」なのである。ということは、「自分」も「世界」も存在しなくて、ただ存在しているというだけなのである。ああ、存在とは、何なのか。
池田晶子 知ることより考えること P.16
44歳にして視力のよい池田さんが老眼の初期に隣して「見る」ということを考えた文章だ。
自分が存在しないと、世界が存在しない、という言い方がある。見るたびに世界が生成されているように(すなわち生成前は存在しないように)聞こえるので、あまり顧みられない考えであるようにも思うが、たぶんそれで正しいのだろう。存在しないことを、存在する私が、考えることはできないのだ。
世界も、他人も、過去も、未来も、これは考え方のルールであるだけだ。エデンとはいわず、原始時代の人類は、たぶん他人や動物、自然に対して今とは違う一体感(分かれてのちの一体感ではなく、そもそもはじめから終わりまでの)を自然に持って、生まれ死んでいたのだろう。
他人との比較は地獄の始まり、エゴとはそこにある、ということを感じているのだが、過去があり、今と比較する、という物語もまた、地獄の始まりであり、エゴであるだろう。
つまりはふつう、過去のよきことを「思い出し」、今の状況を「よくない」と思う事こそ、普通のエゴだし、人間の基本設定であるようだからだ。
だから常に不幸である。不幸であることは、負の生きる力、すなわちエゴになる。
エゴは負であろうが、正であろうが、とにかく種を、個体を、生きさせようとする「いいも悪いも超越した」心の仕組みだからだ。
「素晴らしきかな人生」という映画がある。リメイク(題名のみ?)もあるがオリジナルのほう、実は未見ではある。だがそこで主人公は今の不幸を嘆き川に身投げする時に天使と出会い、天使に今の自分が過ごしてきた経緯がもし違ったら、ということを見せられて今の幸せを初めて感じる、という話のようだ。
ここから導かれるのが、人は過去の良かったことを無意識に覚えていて、今がそれと比較して幸せではない、と思うということだ。これこそ、エゴの働きである。
そして過去の良かったことを忘れれば(例えば「自分が生まれたこと」)、今はとってもましだ、という気持ちに次第になる、ということだ。
この考え方は、「今ここ」「過去も未来もない、それも含んで現在だけ」といういわば禅などでも示される気持ちに通じるものだろう。今あるものに満足する。そしてそこから始める。
自戒しかない、つい、将来のため、と思っている。悪くはないが、その考え方にはエゴと失望と、過去の自分への文句が、セットになりがちであることを、しっかりと考えなくてはいけないだろう。
(エゴ、はなくせませんが、ゲド戦記での教えの通り目の前に来てもらい、正面から語り合わねばならないもの、なのでしょう)