夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

4月24日 東京一人暮らしの1年目と2年目の変化。かぜのたみさんのYOUTUBEをヘビーローテ中。

今朝の体重63.8kg、体脂肪8.8%。昨日はほとんど家に籠りっぱなしであったのだが、朝から400g位減った気がする。昨日は本日画廊搬入がある東京京橋のギャラリーオル・テールさんへの2点目の銅版画に、水性色鉛筆で手彩色を行ったり、毎日ちょこちょこ書いているエスキース類をファイルにまとめたり、もう一冊ファイルをアマゾンで買って(注文して当日届くんですね!!)もう一冊ファイルを夜作ったりで、結構作業をしたことはした。f:id:mamezouya:20240424064210j:image
f:id:mamezouya:20240424064217j:image
f:id:mamezouya:20240424064214j:image

 

脳が動いた、とも思えないが、活動していたことにはなるのだろう。まあ寝ていても痩せるわけで。。(これを書いているのは3月21日なので、この日記発表時はもう終了しておりますが。。すみません)

 

作業中ラジオ替わりに、かぜのたみさんのYOUTUBEを流しまくっていた。こちら画像というよりは語り系なので、耳だけでもいいし、声のトーンが落ち着いていて聞きやすいし、またなによりばりばりの関西人でいらっしゃる(日本語変?)と推察するが、たまにうまくご自身の感覚を伝える際に使用し、基本標準語というのが、私も会社では標準語、脳内はいつも関西弁、という状況と似ているのが心地いいのだ。

 

ご本人はアラサーとおっしゃっているし、基本女子向け想定でおっさんは想定外ではあろうけれども、一人暮らしで生活をちゃんとみなおさんとなー、と思っている我が方としては、日々の暮らし哲学が参考になる。

 

今朝ちょっと聞いたのは、昔東京都心でOLをなさっていたころの初めの様子と、そこから徐々に整えていかれた変化を語られた回である(まだ途中ですが)。

 

私も昨年1年は一人暮らしで、生活ぐだぐだやったなあ、と思っており、いま「これではいかん。」と思って試行錯誤中であるので、大変参考になった。

 

まずはコンビニとのつきあい。1年目は結構コンビニでなにか買っていた。冷凍餃子やビール、チューハイなどである。最近はカネと健康のため、あまり酒を買わないようにして、その代わりに玄米を食べるようにした。空腹を簡単に紛らわす手段として酒を飲んで寝てしまう、ということを行っていた気がするからだ。

 

酒は習慣性がある。当然だが、一度飲んで安易に幸福感が得られることを実感すると、ちょっと心が弱ったときに簡単にそこに逃げ込みたくなるのだ。毎日20gのアルコールであればそれほど問題ない、と言われるが、例えばサイゼリヤでグラスワイン100円とドリンクバー(食事時)200円の計300円で、カナダドライ10杯位を飲みまくれば、アルコールではなく糖質の問題にもなるだろう。

 

下手すれば20杯位飲んでいたし。。。

 

とりあえず玄米で満腹になれば、酒で紛らわそう、ということが減るような気がしている。スタバやコンビニコーヒーなども結構飲んでいたが、カネに余裕があった時はともかく、今はちりつもでカネが減る悪手であろうと認識、最近はペットボトルに湯冷まし白湯(まあただの水ですわな)を入れて飲んでいる。

 

買い物もできるだけなくなったら買う、ということで回数を減らしている。スーパーでも買うものはほぼ固定。今後は0円DAYを増やし、休日の外出も厳選(基本歩きで図書館、公園でぐったり)しようと思っている。

 

この前日比谷公園でぐったりしたが、花粉を吸いまくったようで、ちょっと大変ではあった。

 

あと、そういうことで追い込みすぎず、心が疲れたときの散財費用は織り込んでいる。そういう予備資金がある、ということで精神が安定する。月の前半は絞って、活動は月後半に、という感覚も採用しようとしている(そうすると月前半で金銭面で余裕が出て、後半の精神状態がよくなる)。

 

ひまになれば掃除、というところまではまだ行かないが、とりあえずキッチン周りをまめに拭く、ということをやったら、すこし気分が良くなってきているところである。

 

ということで、日々の生活をいろいろ見直していこう、というきっかけにさせて頂いている。

 

(ラジオとしてYOUTUBEを聞く、というのがいいですよね。1回1時間、というのも番組的でいい)



 

 

4月23日 鈴木大拙の禅、鈴木大拙と禅。

人生の根本的問題は、主客を分かつものであってはならぬ。問いは知性的に起こされるのであるが、答えは体験的でなくてはならぬ。

鈴木大拙の言葉より。

f:id:mamezouya:20240423103316j:image
f:id:mamezouya:20240423103309j:image
f:id:mamezouya:20240423103305j:image
f:id:mamezouya:20240423103312j:image

永遠とは、この知性・感覚の世界におけるわれわれの日常の体験であって、この時間の制約の外に永遠があるのではない。永遠とは生と死の真只中(まっただなか)、時間の進行の只中においてのみ可能である。

 

工藤澄子訳 「禅」 鈴木大拙

 

 

私は特に鈴木大拙に詳しいものではないのだが、なんとなくだが大変身近に感じるのである。大拙の妻ベアトリスは、片山廣子と同い年位であったが、日本に来てから片山にアイルランドの物語への道筋をつけた人である、と認識したりしていることもある。

 

その結果、片山は「かなしき女王」はじめ、その時代の日本では稀有の透明感を持った翻訳をなし、長い年月を経た今も多くの読者の琴線に触れている。

 

大拙の妻は旧姓を ベアトリス・アースキン・レイン  と言ったようで、結婚したときはベアトリス33歳、大拙41歳であったという。当時としては晩婚であったろうか。

 

アースキン家はスコットランド王:クイーン・メアリーの後見人を出した家系とのことで、ベアトリスの母エマはアイルランド出身ではなかったとのことだが、米外交官トーマスと結婚してベアトリスを授かったという。

 

鈴木大拙明治30年に渡米している。片山廣子の父は明治27年に外務省を退官しており、明治38年に亡くなっているので、米国にて大拙との直接の接触はなかったのかもしれない。

 

上掲の工藤澄子訳の「禅」は、米国でどのように受け入れられたのだろうか。私などは日本生まれ日本育ちであるので、禅、といえば仏教の一宗派である、という印象から入る。そう、仏教と言えば、聖徳太子や「一休さん」というイメージが渦巻くのだ。なので、相当年を取るまで、禅仏教の特異性、といった感覚はあまりなかった(一休さんは禅師ではあるが)。

 

だが日本ではキリスト教といっても、サンタクロースに讃美歌、カトリックプロテスタントの区別もままならない。両派がいわゆる「ミッション学校」(片山も最初期のミッション校を出ているが(宿舎に住んでいた)、最初期であるがゆえに教師たちは真摯にキリスト教を生徒に伝えたことであろう)を作ったことで、個人的、というか私の母親はプロテスタント系の学校とカトリックの学校を出たりしていたりで混乱している。

 

つまり米国ではその逆、予備知識やイメージなく「禅」を一つの思想体系としてピュアに受け、考えて体感したのだろう、と思うのだ。

 

禅は、人間一人一人のなかに神自身の残り香のようなものが宿っている、という教義のため、異端とされ当時の教会から抹殺されたグノーシス派や、その後その思想の流れを汲んで同じく異端とされ抹殺されたカタリ派などの教義とも親和性があるように思う。

 

つまりは、「悟り」だ。

 

悟り、というものの理解が勿論私では不十分であろうが、いわゆるキリスト教圏で一部グノーシス派などの思想を史実として理解している層、当時のヒッピー文化、そういった土壌の中で広く興味を持たれたものだと思っている。

 

妻のベアトリスは母親から続く神智学者でもあり、その知識・信条から大拙に惹かれて結婚したのだろうと思っている。

 

それは冒頭で引いたような大拙の人生や永遠に対する深い理解があってこそであったのだろう。

 

大拙の言葉は英語を通して日本語に戻っており、それがまた味わい深いですねー)

4月22日  買わないで過ごす。食費は削るが、将来の健康にはできるだけ配慮したい。。。

日々の生活費について、最近すこし考えるようになってきた。

 

きっかけは自由気ままに過ごしていたら、食費がなくなってきたことである。

f:id:mamezouya:20240422060457j:image

ここでもよく書いているが、私は一人暮らし、住居費・光熱費・通信費以外で10万円で過ごす、という日々である。普通の皆さんは住居費等当然込みで生活されているので、結構贅沢な話ではあるだろう。

 

だが、毎日昼に外食、夜も外食多し、飲み会も多い、趣味の版画教室費用や道具代、たまの展示会への参加費用や応募費用(海外公募だと円安でどんどん出てゆく日本円があがっている)、それに一人飲み費用、スポーツセンター費用、などを考えると、全然赤字であったのだ(単身赴任のおっさんの食費は6-7万円と聞いたことがある)。

 

何も考えずに過ごしているとこれはやっていけない、と自覚したのちは、意識していろいろ安くできるPOINT,ここは譲れないPOINTなどをまがりなりにも考えるようになった。

 

まずは極力宅のみを控え、一人飲み(店に行く)も控えることにした。コンビニにはいかない。買い物は付近の店をリサーチして安い店へ。

 

昼食は外食は基本なし。おにぎりとプロテイン持参にした。

 

夕食も基本自炊。まあ、主に食費を押さえる方向である。

 

だが会社員であれば、同僚といっしょに昼食、飲み会は避けられない場合もある。そして食費を絞りすぎると、将来的な健康不安がある。

 

そこでやはり食べるものにはできる限り考えて購入してゆくことにした。安ければいい、ではないのだ。

 

管理する能力がないので、今の時代原始人のようだが現金主体だ。めんどくさくて、カネを使いにくくなる。前は1万円札を財布に入れて、どんどん使っていたが、今はすべて千円札だ。財布には入れず、項目ごとに分けてダブルクリップで止めて、まとめて紙袋に入れて鞄に入れている。

 

必要な分はそこから財布に移すわけだ。

 

で、出来るだけ「0円DAY」となるよう意識することにした。

買い物も極力纏める。

 

1か月は20日から19日までで計算。ここでできるだけ残っているように、と思ってやっている。

 

おかげでこの2か月位は黒字になってきた。おとといの日記でも書いたが、健康に最低限必要なものは、吟味の上買っていこう、とも思っている(オリーブオイル)。

 

面倒だがAMAZONで買った分は都度銀行引き落としのため入金する。このめんどくささがAMAZON購入をかすかに阻害する、という感触もある。あくまで「かすかに」ではあるが。。

 

今は機会があれば出来るだけ展示には参加させて頂こうと思っている。今年で版画を始めて9年目になった。参加させて頂けるだけでも、本当にありがたい。

 

(黒字になると、気持の面ですこし余裕ができますね。。赤字の時はほんと気持ちは暗澹たるものでした。。。。。あと怖いのは、古本の街神保町ならではの、古本買い、ですねー。。)

 

 

 

 

 

 

4月21日 長談義。本読み民は、マイナー民。

荒川洋治さんのエッセイ選、「文学は実学である」P.14 「白い夜」から。

 

全世界が机の上に、集まったような気分になるが、これこそ長談義の醍醐味。二,三時間の話など、人間のすることではない、とまで思う。

 

前も取り上げた気がするが、48歳の荒川さんが、28歳の同じように文学好きの友人と語り合う楽しみを記したものだ。

f:id:mamezouya:20240421044233j:image
f:id:mamezouya:20240421044240j:image
f:id:mamezouya:20240421044236j:image

さてこういった会話は現代では可能なのだろうか。

 

現代、といったが、このエッセイは1997年に発表されたもののようだ。いわゆる「純文学」が好きな2人、という組み合わせであるが、勿論今でも純文学を偏愛する人々はいるだろう。

 

まあ、あまり日常では出会わないのだろう。私も会社生活で、絵が好き、という人で話が合う人は今まで一人も会ったことがない。

 

最近、神保町パサージュさんでひと棚本屋を始めたが、棚主(牢家主みたいでいい響きですね(笑))の方と話していて、「まわりで本を読む人がいなかった」というコメントを聞いて、そのことを思い出した。

 

森博嗣さんは、名大(ご本人ははっきりおっしゃっていないが)の助教授時代、この教室で本を読んでいる人の割合は極少である、ということを講義でおっしゃった、というようなことを書かれていた記憶がある。ご自身もベストセラー作家であるわけで、そういう意味でも小説、というものの位置づけが、本にどっぷりつかっている人にはよくわからないのだなあ、ということを思ったものだ。

 

例えば新NISA。ネットを見ていると多くの人が既に開始しているような感覚になるが、実際に開始している人の割合はだいぶ低いようだ。勿論世代差はあるだろう。

 

つまりは日々の生活では、自身の本当に好きなことがかぶる人とは、あまり出あわないのがデフォルトなのだ。

 

勿論同世代で興味が近い学生時代などは結構出会うのだろう。だがそれくらいのイメージで社会に出ると、メジャーなものならともかく、マイナーなものではほぼ出会わない。私の感覚では、本は未だぎりぎりメジャーかな、と思ったが、会社の同じ年齢の友人と話していて、「村上春樹を知らない」、と言われたときには驚いた。

 

驚くことはすこし失礼かもしれない。本を読むことに優越感を持っている、ということになりかねないから。だが村上春樹である。日本で、いや世界でも一番有名な日本人作家ではないのか。

 

勿論、世代が違えばそうでもない、ということはありうる。だが同級生なのだ。

 

その時のことを森さんの文章を読んだとき思い出した。

 

そうか、本を読むことはドマイナーな趣味なのだ。

 

それがどうこうではないし、人に読めなどという気もない。

だが自身が本好きであると、周りもある程度そうだ、と思ってしまうバイアスあるなあ、と実感した、経験であった。

 

(気を付けないと、本位読め、みたいなえらそうなやつ風に取られちゃいますね・・・)