夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

4月21日 長談義。本読み民は、マイナー民。

荒川洋治さんのエッセイ選、「文学は実学である」P.14 「白い夜」から。

 

全世界が机の上に、集まったような気分になるが、これこそ長談義の醍醐味。二,三時間の話など、人間のすることではない、とまで思う。

 

前も取り上げた気がするが、48歳の荒川さんが、28歳の同じように文学好きの友人と語り合う楽しみを記したものだ。

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さてこういった会話は現代では可能なのだろうか。

 

現代、といったが、このエッセイは1997年に発表されたもののようだ。いわゆる「純文学」が好きな2人、という組み合わせであるが、勿論今でも純文学を偏愛する人々はいるだろう。

 

まあ、あまり日常では出会わないのだろう。私も会社生活で、絵が好き、という人で話が合う人は今まで一人も会ったことがない。

 

最近、神保町パサージュさんでひと棚本屋を始めたが、棚主(牢家主みたいでいい響きですね(笑))の方と話していて、「まわりで本を読む人がいなかった」というコメントを聞いて、そのことを思い出した。

 

森博嗣さんは、名大(ご本人ははっきりおっしゃっていないが)の助教授時代、この教室で本を読んでいる人の割合は極少である、ということを講義でおっしゃった、というようなことを書かれていた記憶がある。ご自身もベストセラー作家であるわけで、そういう意味でも小説、というものの位置づけが、本にどっぷりつかっている人にはよくわからないのだなあ、ということを思ったものだ。

 

例えば新NISA。ネットを見ていると多くの人が既に開始しているような感覚になるが、実際に開始している人の割合はだいぶ低いようだ。勿論世代差はあるだろう。

 

つまりは日々の生活では、自身の本当に好きなことがかぶる人とは、あまり出あわないのがデフォルトなのだ。

 

勿論同世代で興味が近い学生時代などは結構出会うのだろう。だがそれくらいのイメージで社会に出ると、メジャーなものならともかく、マイナーなものではほぼ出会わない。私の感覚では、本は未だぎりぎりメジャーかな、と思ったが、会社の同じ年齢の友人と話していて、「村上春樹を知らない」、と言われたときには驚いた。

 

驚くことはすこし失礼かもしれない。本を読むことに優越感を持っている、ということになりかねないから。だが村上春樹である。日本で、いや世界でも一番有名な日本人作家ではないのか。

 

勿論、世代が違えばそうでもない、ということはありうる。だが同級生なのだ。

 

その時のことを森さんの文章を読んだとき思い出した。

 

そうか、本を読むことはドマイナーな趣味なのだ。

 

それがどうこうではないし、人に読めなどという気もない。

だが自身が本好きであると、周りもある程度そうだ、と思ってしまうバイアスあるなあ、と実感した、経験であった。

 

(気を付けないと、本位読め、みたいなえらそうなやつ風に取られちゃいますね・・・)