夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

11月18日 新潟へトキに乗って。

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今朝の体重65.7kg,体脂肪率10.7%,うろ覚え。

エックハルトのキイワードは"離脱"である。確か昨日もそう書いた気がする。

画面に貼った本を持って現在車中である。たとえば3上、他の事があまり出来ず結果集中しやすい環境の事を言っている。

これが自室だとついスマホYouTubeで時間が溶けて、読書にたどり着かない。なのでわざわざ便座に座って読書、などと言う滑稽な状況にもなりうる。

これは他人の視線から逃げての退避ではない。自分の心のだらけ癖からの退避である。

エックハルトの言葉からひいて行く。

「神は私よりも私に近く在す(います).」

エックハルトが異端とされたのは端的に全てが一であると言い、神はあなたと共にある、あなたが中身を離脱で虚しゅうすれば、空いた場所に真実としての神が宿る、と説いた所為だと理解している(個人理解)。

従来の教会システムからすると、どこまで行っても神と汝が同じと言うのは異端とされるだろう。

そこは多分エックハルトはわかっていたはずだ。だが自身にが得た言わば"悟った"内容がそうであればもう仕方がない。それが真実なのだから言うしかない。半分心の中では諦めて故にあるいはより熱を込めて人々に教説を説いたのだろうと思っている。

そう言う意味では彼の立場で悟る事は、苦難の道ではあったろう。だが死後とは言え異端とされた事には逆説的利点が人類にとってあった気もする。当時少なかった研究書や研究者も現代では多くあるようだ。600年も封印されながら、綺羅星の如き著名な賢人たちのインスピレーションに影響を与え続いているのだから。

(他の本を読むのが楽しみです)