道を見ようとしても 見ることはできぬ。
そのため、道は相(すがた)なきものと称されるのだ。
道は耳を傾けても聴くことができぬ。
そのため、それは音声なしといわれる。
道は摑もうとしても捉えることができぬ。
故に、それは妙なるものと言われる。
これら三者の限度は量り知れない。
それゆえ、それらは一に融合している。
道は上にあるも明るいわけではない。
それは下にあるも、漠然としたものではない。
道は無限の広がりをもっており、何ともかとも名づけようがない。
道は無に帰するのだ。
それは相なき相、形なき形と呼ばれ、
それは漠然としたものと称される。
それに面と向かっても、その面(おもて)を見ることはできぬ。
太古の道(タオ)にとり縋れば、今日の存在を支配する身となる。
かくして物事の初めの消息を知るのである。
これがすなわち道の本質(道経)である。
訳 R.B.ブレイクニー 鈴木大拙 神秘主義 より
古典は現代語訳を読み込んでからテストを受けたものだ(というかそれしかしなかった)。
ストーリーが頭に入っていれば、解釈はその筋に沿って適宜行えば、大きく外れることはない。
古語といっても、日本語なので、推測は容易だ(英語よりは)。
英語も、英文解釈はあまりない単語力を無理やり引っ張り出して推測しまくり、暗号解読の気分で、文章の気持ちや流れでやけくそで作文しているつもりで行ったものだが、
それはそれで結構面白かったことを想いだした(珍説が爆発していたと思いますが)。
私の理解があっていれば、上記の老子の翻訳は、
中国語(原典)→英語(ブレイクニー)→日本語へ翻訳
という過程で出てきたものだろう。日本人には漢文として直接原典をあるていどは読む能力もなくはない(もう忘れましたが)ので、
当然原典解釈者としての欧米人ブレイクニー(どういう方か忘れましたが)の癖や老子理解のフレイバーが出てきているだろう。
そしてそれを「神秘主義」という本のなかで、かの鈴木大拙が取り上げているわけで、
2重3重の面白さを感じるところである。
老子についてはきちんと体系立てて理解しているわけではないが、
「道(タオ)」とは、相(すがた)なく、音声なく、妙なるものであり、限度がなきゆえ「一」に融合している、という。
ぼんやりとわからないものこそが、唯一の確かなるものである。
神や一や全、ということばを見るとぼんやりするし、ぼんやりするしかない、という感じになる。
だが、人生とは、その意味とは、「結局わからないもの」であり、わからないことがわかる、ただそのことでもある、と思うところだ。
そんな世界を垣間見せて頂ける、鈴木大拙という人はやはり偉大な人である。
(魅力的な人ですね)