夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

自分時間と他人時間。整える、を意識した一挙一投足をしてみる。忙しい、ということは、「心」が「亡くなる」ことなのだ。

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今日の体重64.7kg、体脂肪10.1%。昨日はスポーツセンターへ行くことができた。

なんとなく日々の動作に心がこもっていなくて、「義務で動いている」というか「やらされ感」のあるものとなっているような気がした。

禅の心得で行けば、自身の息で肺が、胸骨が微細に動いていることを意識したり、歩き遊行?のような時には歩くときにつま先や足の裏の感触や筋肉を意識して動いたりすることが、いわゆるゾーン(禅の心理と似たもの)へ入る近道とされていることがある。

それと同じで、今まではとにかく、「会社に行くために準備する、”やらされ動作”」つまり愛でるべき動きではない、というエゴの意識があるのだろう。

そう、また、「エゴ」だ。

このエゴを見据えると、折角の「生」、この瞬間をいとおしむ、という意識で行くのであれば、たとえ「やらされ動作」であっても、もっと心を込めて一挙一投足を大切にしたほうがいいのではないか、と思った。

ジムでも同じだ。ルーティンでやるのと、どの筋肉にどう効いているいるのかを意識してやるのとでは、効果が全くちがうのだ。

やらされ感のある動作は雑で失敗が多い、多くても「どうせやらされてるんやから」という言い訳で、別にいいやん、となるのだ。

私は会社に行く道でよくこけていた。大人なのだがメチャこけていた。

そのこともそういう心理が影響しているのでは、と思っている。

とにかく「動作」を「自分ゴト」として意識してみる、ということに、なるだろうか。

(心を「整え」て、一つ一つの動きを意識して過ごすと、日々がいとおしくなる気がします。まあ、忙しいと「心」が「亡くなる」のですね。表意文字の凄さですね。漢字に哲学が入っています)