夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

物語の力。

この世界に何かの縁で奇跡的に生まれていま生きている。

 

時間や空間、という人間が発明した考えに縛られつつも、過去や未来、というものが無い、という意味では時間という概念は誤解を生む。そこでは”時間はない”という方が、多分いいのだろう。ただ、今、はある。この瞬間は、ある。ただこの瞬間しかない。それを”時間”といってもいいのだが、時間といいうと”過去”や”未来”がセットで想起されるようになってしまっている(=ドクサ)ので、それは”永遠”といったほうがいい。

 

永遠、というとなんだか宗教みたいだが、宗教でいう”永遠”のことではない。過去も未来もないこの瞬間だけですよ、という意味での永遠だ。永遠に”続く”ではない。続く、とはすなわち”過去”や”未来”の別の呼び名だ。

 

永遠の繰り返しであるこの世界で、すべては繋がっている。これも宗教的なものではない。単純なことだ。名称はわからないが、最小の単位がなにかあり(素粒子であるのかもしれないし、違うのかもしれない)、すべてはそれでできている。ただ濃淡だけ。宇宙とは、それのことだ。

 

宇宙には多分限界がない。境界、というものは考えられない。だって、境界があったら、境界の向こうがあるわけで。真空だろうがなんだろうが、そこは空間だ。

 

限界のない、境界のない世界にわれわれはいる。それだけで不思議すぎる。奇跡すぎる。だれかがそういうことをPLANしたわけではない。ただそうして、ある。

 

なので誰も、なにも、義務はない。理由もない。そこから、出発し、でも生まれたときより世界を良くして去ってゆきたいものではある(どこに?去るとはどこからどこに??)。

 

そのためには村上春樹氏は、”物語の力”を信じて、物語を世界に提示してゆく戦略をとっている、とおっしゃる。

 

これはただ、物語を紡ぐ能力のある村上さんがおっしゃっているだけのことなんんだけど、とても正しい姿勢だと、感じる。どうしてかは、わからないが。

 

森博嗣氏が、20年以上務めた大学を退官される際に、大学に頼まれていた書いた文章を読んだ(「森には森の風が吹く」2018年、講談社)。

P.215‐216

 人の視線というのは不思議なもので、ずいぶん遠くからでも、その人がどこをみようとしているのか、その視線の先をだいたい知ることができる。感情にコントロールされた表情以外で、人の顔が持っている最も重要な情報の一つではないか、と思われる。
 これは、目で見る「視線」だけに限った話ではない。その人物が、あるいはその集団が、今どこに注目しているか、何を見ようとしているか、という「姿勢」は、なんとなく直感的にも伝わってくるものであるし、また、それによって、その人間、あるいは組織が評価されることも多い。ときには、これまでに何をしてきたのか、ということよりも重要となる。

この文章は、政治からの圧力で、本来の大学の目指すべき方向ではない方向に嫌々なのだろうけれどもとりあえずは行ってしまっている、大学を批判しているものだ。

 

そんな大学の想いを、人は、学生は、感じる。きちんと、責任ある態度で世界を前に進ませよう、という視線ではない、と感じる。なぜだか、わかるのだ。

 

政治と、学問は、相性がわるい。政治には学問に対する基本的なルサンチマンが、あるのだろう。劣等感、といってもいい。”無駄なことをやらずに現実的なことをやらんかい、ボケ!!”である。

 

そう恫喝されたら、ビビりますわな、普通。自身は国家公務員だし。私立も助成金だのみだし。

 

ビビるのは、普通だ。個人の、生活が脅かされる。だが、ちょっとまて、大学とは研究する姿を通して、学生をも教育する場だ。

 

そこで”びびり、現実的なことしかやらせてもらえない、それが人生、それが大学”という現実を、その”政治的にあらまほしき姿の学問”を、学生に深く理解させ、実践させねばならない。そこで生み出される人間は、アップデートされた社会の歯車だ。短期的にはすごく役にたって、長期的には使い捨ての、歯車だ。使い捨てだから、毎年補充せねばならない。

 

それこそが政治による学問への、究極の復讐なのだ。

 

それでいいわけがないじゃないか、と森氏はおっしゃる。村上氏が物語の力で世界を前に進めることを目指されるように、大学も学問の力で世界を前に進める気持ちをもってほしいと私も思う。学生はその気持ちを感じて、大学に入り、共に世界を前に進めたいのだ。

 

政治をする人々の”役損感”が問題なのだろう。”こちとら糞みたいな現実のハンドリングをわけのわからない「有権者」の顔色をみてへいこらしてやっているんだ。役得がなければやっていられない、と思ってちょっとやれば又たたかれてすぐ辞任だ。役損としか言いようがない。それをなんだ、偉そうなことを金もらって言いやがって。なにが大学だ。なにが教授だ。しょうもない夢みたいなことを言わずに、現実的な学生の教育機関であることに徹底せんかい、カス!!”である。

(すみません、口がわるくて)

 

生業として、2世や3世として、議員をやるとそういう本音になるだろう。多分私も同じ立場であれば、イライラしてそう思う。仕方ないことだろう。私も、あなたも、凡人だ。

 

だが、そうであれば、自身の限界はそれまで、と思い、次代を、将来をよくしよう、と思う人が政治家であってほしいとは思う。あるいは自分は無理だが、そういう人を応援しよう、という人では、あってほしい。

 

あつかましい、願いだろうか。多分そうだ。だが、生業の人にやめてくれ、とまでは言うつもりはない。生きるためには仕事が必要なのだ。たとえ議員であっても。

 

自分が生きることは大切だ。だがエゴに、DNAにコントロールされていることに自覚的であることも、重要であろう。

 

やはり、哲人政治が、理想だろう。池田晶子さんは、政治には全く興味がないとおっしゃった。だが、哲人による政治しか解がない、と感じてらしたとも思う。ご存命であれば、と強く思うところである。

(善悪、というものは本当に相対的ですね。ですが相対的ではない本当の“善”もあるように思います)

 

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澁澤龍彦とアリス。

「少女とは人間の中で最も(あからさまに)性的ではない存在であり、生をいちばん安全な場所にしまっている存在であるが、一切の性的なるものを、そのような少女の中に封じこめてしまいたいという願望こそ、ドジソンが少女に惹かれる大きな動機をなしていた」

イリアム・トンプソン(英)「牧童としての子供」高橋康也

 

上のトンプソンのドジゾン評について澁澤龍彦はその論評、「アリスあるいはナルシストの心のレンズ」の中で引用しつつ、こう言う。

 

私は、『アリス』の作者たる偏屈な独身者ルイス・キャロル氏の精神の秘密を白日のもとに暴き出した、これ以上に的確な評言を知らない。私もまたトンプソンと同様、かねがね『アリス』のなかに、最も性的なものと最も純潔なものとの秘密の共存を愛してきた者のひとりだからである。

自身の認識と、トンプソンの認識の共通点を、半ば秘密を告白するもののように言ったうえでこう続ける。

アリスとは、独身者の願望から生まれた美しいモンスターの一種であろう。

私がアリスと初めて出会ったのは、かのディズニーアニメ、というよりは当時多く発行されていた(今もあるかもしれない)ディズニーアニメをベースに、その名場面を絵本化したいわゆる”ディズニー絵本”を通してであったろう。

 

幼少期には、白雪姫やダンボ、眠れる森の美女や101匹わんちゃんといったような作品は、もちろん”ディズニー”という人が創作した物語群である、と思っていた。すこし年令がいくようになると、どうやらそれぞれのお話には原作があるようだ、ということをうすぼんやりと感じた。

 

そして出会ったのが原作と、テニスンのかの版画版アリスである。もともとディズニーは実際の少女と共に、テニスンの挿絵を参考にしているので、ディズニーの後に出会ったテニスンの絵は意外なほど違和感がなかった。

 

だが、いわゆるセルアニメのある意味ツルリとした絵の質感とくらべ、黒インクが深く紙に食い込んだ版画の画面は、ディズニーのアリスに負けず劣らずの魅力を、私に感じさせた。

 

あの、少女の身体にいくらかデフォルメされた、しかし日本人には成人にもめったに見られない美しい”大きめの”顔が乗っている。すっかり欧米の版画の魅力に憑りつかれた私は、そのあと荒俣宏氏の著作に出会い、西洋妖精画の世界にどっぷりとつかったのである。

 

だが、アリスはなぜか引き続き、私の中では大きな位置を占め続けた。普通の人間なのに?幻獣好きなのに?

 

言語化できてはいなかったが、そこをうまく澁澤氏が表してくれたようだ。

 

そう、アリスとは一種のモンスターなのだ。通常のひとりのニンゲンではないのだ。

 

モデルとなったアリス・リデルさんはドジソンにとってはきっかけであったのかもしれない。きっかけ、と本人は思っておらず、彼女の存在のおかげであの物語は生まれたのであるが、アリス・リデルとしてはそのままの年齢で留まることはできないのだ。その物語の中以外では。

 

それを、ドジソン氏は実感したのだろう。写真の中に永遠に少女たちの一瞬の姿を閉じ込めようとし続けた姿を見てもそう思う。”変化”に彼は耐えられなかったのだ。

 

モンスター、とは形状や外見のことでは本来ないだろう。人はすべてが違っているが、その違いが際立っている、あるいは際立って見えるものたち。

 

アリス、としてドジスンが抽出した脳内の存在は、いつしか本人を離れて、独自の、永遠に異世界へと訪れ続ける存在としてのモンスターに、なってしまったのだ。

 

だが、見た目は永遠に変化しない。

 

いや、変化しないがゆえに、モンスター、なのだが。

 

→この世界には、どうしてもアリスの存在に、反応してしまう一群の人たちがいるようですね。。。私を含めて

 

アリス幻想 (1976年)

アリス幻想 (1976年)

  • メディア:
 

 

村上春樹インタビューを読んでいる。

「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです。」

村上春樹インタビュー 1997-2011 を読んでいる。

 

 

今年で東北震災10年だが、3月20日AM8時、1995年には地下鉄サリン事件があった。1995年1月には阪神での地震があった。

 

この30年間で大きな災害や事件があった。

 

前述の本で、サリン後の1997年に村上氏は被害者にインタビューした”アンダーグラウンド”を上梓されている。30歳でデビューし、40歳で”ノルウェイの森”を書き、インタビューは50歳前からのものだ。20年、作家をされ、ノルウェイの森がベストセラーになることで、周囲が大きく変化し、アメリカに住むようになり、”ねじまき鳥クロニクル”を上梓される。

 

サリン阪神大震災時は、だからアメリカに住んでいた、ということだ。

 

それぞれの事件や災害が、それぞれの人にとっての心に占める位置、というものはさまざまであろう。

 

例えば過去そこに住んでいた。知り合いが関係している。他人事とは思えない。

 

もちろん皆さん他人事とは思えないかたがほとんどだろう。私個人でいくと、1997年5月の酒鬼薔薇事件も含め、4つの事件が大きく心を占めている。

 

そのことについては、一つ一つが大きいテーマになるので、この稿ではこれ以上は書けないが、それとは別に村上春樹インタビューで(まだ読んでいる途中ですが)記憶に残ったことの一つに、村上氏が小説を書くときに、なんのプロットも、あらすじも作らずに、先行きは自らもわからないまま、小説を書いている、というところがある。これは最近読んでいる森博嗣氏も同じであった。書きだしてみないと作者である自分も先がわからない。わかったらおもしろくないし、書けない、と両者ともおっしゃる。

 

個人的な話になるが、高校3年の時、小説を書いてみようと思ったことがある。小学校6年くらいでマンガを書いてみようと思ったが、小説は読みはすれ、書こう、という気がそれまでは起きなかった。どちらかというと、マンガより大変そうだ、という印象があったからだ。

 

それまでは様々な小説はあるのだが、好きな小説は一貫してファンタジーオンリイであった。指輪物語ナルニア国、そしてドリトル先生。児童物のファンタジーから脱却できていなかった(そしていまもできていない)。

 

マンガの描き方を読むと、ストーリーテラーであることが必要、まずはストーリーを頭をひねりまくって絞り出すことが創作なのだ、と学んだ。手塚や藤子が、死にそうになってストーリーをひねくりだす姿自体が、マンガになっていた。創作とはそのようなものだ、とそう、数か月前まで思っていた。

 

高校3年生のとき、卒業文集を出そう、という話があった。学年でのまとまりが全くなかったが、名前だけ美術部の私にも話が来た。結局絵物語(こちらは完成)とSF風味小説第一回(つづく)を書いた。いや、卒業文集である、つづく、はありえない

 

つまりは小説を自分は完成する力がない、とそのとき深く心で感じたのだ。

 

ストーリーやプロットを考え、それに沿って物語を書いてゆく。これがどうしようもなく”作業”に思え、面白くなかったのだ。

 

マンガを描いていてもそうだった。ストーリーを説明するための絵を描くのが、しんどいのだ。ああ、これは創作者に向いていない。そう感じていた。

 

絵物語か、挿絵か、一枚絵か。そういうジャンルしか自分はできないだろう、と思っていた。

 

だがしかし、大量の創作物を量産されている森博嗣先生が、かの村上春樹先生が、自身プロットなしで創作をされているとは!!

 

正直、このことは私の脳内世界において、大きな事実である。そうか、そういうものなのか。

 

考えてみると当たり前かもしれない。絵を描くにしても、無理やりひねり出したものには無理があり、後悔があり、義務感により生み出されたもの、という臭みを作品が纏っている。描きたくて、飛び出してきたものにはそれがない。見ていて、わかる。これは作者は描きたくて描いているな!

 

それを感じながら見ることは素晴らしい。こころの触覚を、見えない触覚をゆらゆらさせて、例えば美術館を逍遥する楽しさときたら!

 

職業的漫画家。鳥山明氏のマンガも、描きたくて描いている、という感じが好きだが、だがやはりドラゴンボールの果て無きバトルを描き続けるのは、どうやら苦労されたようだ。人気が出ると、特にジャンプ系は、作者は消耗するイメージがある。作家もそうであろう。

 

そこでは多分締め切りのプレッシャーが必要になるのだろう。もう入稿時間2日も過ぎてますよセンセイ!!である。原稿落ちますよセンセイ!!!である。

 

私も中間試験、期末試験はまったくそうであった。本当に取り組めない。どうして、というくらい取り組めない。一夜漬けならぬ、朝四時半から漬け、であった。

たぶんそれはあまり健康(精神的にも)よくないだろう。ストレスを受け続ける生活になる。

 

そうしたしんどそうな創作とは、すこし世界が違いそうな、というのが村上春樹流であり、森博嗣流、である。日々の生活で自身の中に多くの引き出しを持つ。創作でどのひきだしが、どのように開くのかは、自身もわからない。

 

それこそが、或る意味では理想的な創作姿勢なのだろう、と今深く感じている。

 

 

エゴと自分事。

心と体はつながっているので「元気が出ない」「希望が持てない」というときは、メンタルでなんとかしようとするのではなく、まずは動いてみる。

 

仕事のクオリティを高めたいなら、「実力をつける」より「今の実力を出し切ること」に意識を向けるほうが圧倒的に近道。

小林弘幸 「整える習慣」より

 

 

人は、なにかが出来ないとき、エゴによってできない自分を直視したくない→将来できるようになる、という”言い訳”を自己に認めることにより、できない自分を直視せず、残念な気持ちを慰撫し、目をそらせるようになる。 なので、”将来できるようになる”という気持ちは注意して扱う必要があるだろう。

 

新しいことに取り組むきっかけにはなる。言い訳であることを直視し、残念さを素直に受け止めたうえで、さらにその残念さを再び感じることがない、ということを目標に、きっかけとして”将来できるようになる”と考えて、実際に取り組むことができれば、いい。

 

だが”将来できるようになる”という言い訳でおわり、エゴの慰撫に留まり、進歩につながらないのなら、”いつかできるようになる”と思わないほうがいい。 そのことを小林氏は言っているのだろう。

人はエゴにより、進歩のない言い訳にとどまりがちなので、それよりは”「今の実力を出し切ること」に意識を向ける”べきである、とおっしゃるのだ。

今の実力を出し切る、という意識には、言い訳が含まれていない。このことは、”時”を言い訳にして、昔こうだった、将来こうしたい、と逃げるのではなく、今だ、今しかない、と思うこととつながっている。

 

言い訳とは逃げである。やらないことを正当化するものである。

 

やらねばならないのだ。やらねばならない、という事実から逃げてはいけないのだ。その時の気持ちの最適解は、”今の実力しかない””それを最大限に生かす”という決意と踏ん切りだろう。

 

泣いても笑っても身一つ、の諦念から、やけっぱちの起死回生が生まれる。

 

それが、”実力”だ。

 

冒頭の言葉、”元気が出なければまず動いてみる”もおんなじ系列だ。

だれかに、世間に、政府に、政治に、状況に、世界に、元気にしてもらいたのか

 

それは甘えであり、自分の人生を他人事とする態度だ。自責ではない。

できること。ここに与えられた身体がある。それを使って活動をしてみる。そこで”体の中にある気持ちがどう変化するか観察してみる”。

 

なんらかの動きがあるだろう。無くても、じっとしていて固まった関節が緩む。筋肉の活動で、血液が循環する。生物として、活動的になる。そこで気持ちもひっぱられずにはおれるだろうか。いられないのだ。

徹底的に自分事にすることを意識すべきなのだ。 エゴは物事をひとごとにする。そのほうが”生物としての自分が楽”という仮説を採用しているからだ。

気をつけねばならない。エゴとは自分とほとんど一体になっている。ゲド戦記風に言えば”一生気づかない自己のふたり身”ともいえる。 これを引きずり出し、客観的に見つめるとで、エゴとは和解できるのではないか。

 

よきエゴは、多分自分の味方になる。 そんなことも、ル・グインは伝えようとしているのでは、ないだろうか。

 

→最後、唐突にゲド戦記のことを思いだして、自分でも驚きました。

 

 

 

「ロシュフォールの恋人たち」を見た。

昨日「ロシュフォールの恋人たち」を見た。

【公開】 1967年(フランス)

 【原題】 Les Demoiselles de Rochefort 

【監督】 ジャック・ドゥミ 

【キャスト】 カトリーヌ・ドヌーヴフランソワーズ・ドルレアックジーン・ケリー、ジョージ・チャキリス、ジャック・ペラン、ダニエル・ダリューミシェル・ピコリ 

 

私は今まで映画をあまり見ていない。映画史にも詳しくない。それぞれの映画が、どのような思いで作られ、どのように時代に受け入れられたのか、という知識がない。

 

だが、映画を見ると気になってくる。ジャック・ドュミ監督の作品は、一昨日見終わった”シェルブールの雨傘”とこの”ロシュフォールの恋人たち”の2本だけ、両方とも有名なようだが初見、どちらもミュージカルで有名だが無音で見ている。

 

いろいろとネットで見ていると、ドュミ監督は1931年生まれ、1960年に長編第一作の”ローラ”を製作、”シェルブールの雨傘”の公開は1964年、この作品はカンヌ国際映画祭パルム・ドールを獲得している。そして続いて1967年にこの”ロシュフォールの恋人たち”を製作している。

 

映画監督は、出来合いのシナリオをベースに監督を引き受けるパターンが多いように思うが、見ている感じでは、デュミ監督の場合は独自の世界観でもって自身の世界を自ら脚本も書いて作り上げている。

 

各映画の登場人物は共通である場合が多く(スケジュールやギャラ等でずっと同じ俳優を使い続けるのは困難であったようだが)、これは例えば手塚治虫なども自身のキャラをいわば手塚プロダクションの俳優のように別の作品に何度も役柄を変えて登場させているのと、(行っていることは違うが)同じような世界観であるだろう。つまりは自身が自身の世界のコンダクターであり、創造主であるのだ。いわば当たり前かもしれないが、自分の世界構築を大切に思っているタイプのクリエーターなのだろう。

 

シェルブール”と”ロシュフォール”は主人公が同じカトリーヌ・ドヌーヴによって演じられているのでややこしいが、別のキャラとして設定されている。では両世界が完全に別物かというと、踊り子のローラが切り刻まれて惨殺された、というニュースが同監督にとっての初長編である”ローラ”と(完全ではないにしろ)リンクしている。自らの内にある世界を、順に作品として現出していこう、という作家性を強く感じるところだ。

 

見る前のイメージは、”シェルブール”の方はどちらかというと甘めのラブストーリーかと思っていた。だがどうも感触が違う。全編歌によるセリフ回しであるこの映画を、無声で見た所為もあるかもしれないが、前日描いたような疑問点を感じた。つまりはこれはいわば”ハッピーの毛皮を被ったアンハッピーな映画”だ、と思ったのだ。名作としていままで残っているのは、逆にそうした苦さ、”あなたがいなければ死んでしまう”と何度もいうヒロインに、死ぬどころか恋人の子を身ごもりつつ母の望む安定した結婚を選ばせる、そして”戦争のせいで”娘は恋人を待つこともなく、恋人が戦争で死んだわけでもないのに、身ごもりつつ別の男に嫁ぐ、そんな愛の残酷さを観客にジワリと見せつける(それもミュージカルの楽しい歌声と共に)、そんなところがある。ドュミ監督は、この映画について何度も“反戦映画だ”と言ったという。この映画のもともとの副題は”不貞”であったともいう。

 

それを知って、大変納得した。

 

日本という国での受け止めは、どうだったのだろう。フランス、ヌーベルバーグ。その複雑さが愛されていたのかもしれないが、ミュージカルという見た目、そして普通なかなかこの極東の住民には知識が得られない当時のフランスが抱えていた”アルジェリア内戦(アルジェリア独立戦争)”、徴兵制、といった苦い要素が、幼少時よりオペラや人形劇、”やぶにらみの暴君”という名作を生んだアニメ制作会社(ポール・グリモーの主宰するレ・ジェモオ社)に入ることも当初考えていたというドュミ監督の様式美や美意識に隠れて、しっかりと理解されていなかったのではないだろうか。いや、理解せねばならないわけではないのだが。

 

勿論映画は個人が自由に見るものだ。重くみるのか、軽くみるのか、自由である。だがどうにも私には”スパイスの効いたお洒落なフランスミュージカル映画”としてこの作品を見ることができないのだ。

 

この暗さは、一見底抜けに能天気にも見える”ロシュフォールの恋人たち”でもぬぐいがたく感じる。一件明るいのに、見終わったあと残るなんだかよくわからない苦み。この苦みを描きたくて、そして多くの人に”とっつきやすいミュージカルの外見”でごまかしつつ、反戦あるいは愛の不合理、そして人生とはといった重苦しいテーマを伝えよう、とドュミ監督は企んでいるように感じるのだ。ごまかし、とは言いすぎかもしれない。多分監督はそういう”外見”をも、とても愛していただろうし、自身から自然にあふれるもの、とも思っていたのだろう。後年亡くなって妻である映画監督アニエス・ヴァルダが作った幼年期のデュミを描いた”ジャック・ドュミの少年期”を見ていてもそう思う。

 

ご覧になっていない方は注意頂きたいが、最後の場面、双子とその母親はそれぞれの”運命の相手”に無事巡り合ったように見える。実際にそういう結末である。だがドュミ監督は後のインタビューで語ったという。ドヌーヴ演じる双子の妹(実質主人公といえよう)の乗ったトラックにいままで見事にすれ違っていた”運命の相手”がヒッチハイクで乗ってくるシーン。本編では無事トラックに乗って観客はほっと一息、大安心の大団円、というところなのだが、監督はもともと彼をそのトラックで轢き殺そう、と考えていたという。

 

監督がそれを行いたい、という意味は凄くわかる。だが、興行を考えるとそれでは映画が”暗黒のトラウマ映画”になってしまう。

 

シェルブール”の成功を受けて、資金調達した本作で、興行や今後の製作を考えれば、そのシーンはやはりハッピーエンドにせざるを得なかったのであろう。

 

だがそのあとにドュミ監督が第一長編”ローラ”の後日譚としてアメリカで作った”モデル・ショップ”も、内容的にベトナム戦争に絡んだ内容で、明るいとは言えず、興行的には難しかったようだ。

 

ロシュフォール”で一見悩んだのは、双子の祖父となる人物の戦友である黒メガネで恰幅の良い紳士、デュトル氏の位置づけである。”シェルブール”のヒロインであるドヌーヴは、この映画では双子の妹役で別の人格である。だが映画の3/4位の時点で全員で双子の母が営むカフェで夜会食をしているときに、カフェの常連でもあるデュトル氏が中途登場する。双子には初対面だというデュトルだが、シェルブールに居たとき、ドヌーヴに会った気がする、といい、”他人の空似かな”という。

 

これは明らかに2作がつながっていること、別の役で同じ女優が出ている、ということを無理やりつなげようとする布石である。

 

なぜ無理にそんなことをするのか。

 

丁度ケーキを切ろうとしていた時だったので、母親は氏にケーキを切ってくださいな、と頼む。あとからこのシーンを見直すと、少し肝が冷える、という趣向かもしれない。つまりはこの会話である。

 

母:ケーキを切って下さいな

デュドル:どう切る?(妙に満面の笑顔)

母:あなた流に

デュドル:ご希望とあらば(ニヤニヤ)

そしてケーキを切り終えてドヌーヴに渡しつつ氏はいうのだ。

”やっぱり会ってる”

ドヌーヴは苛ついて答える。

”やめて、くどいわ”

 


どうだろう、この違和感。この演出。ドヌーヴはシェルブールでは別の役、観客はわかっている。だが敢えて同じ人物であることを示しつつ、ドヌーヴに苛つかせている。このシーンは“神話的”あるいは”2つの連続していそうで別である世界の橋渡しをするためのだいぶん無理をした演出”と言えよう。ドヌーヴの苛つきは、無理やり2つの世界を関連付けようとする監督自身が、自らに放つ突っ込みのようにも感じる。この流れでは普通ドヌーヴは苛つかない。実は”神話的に””映画的に”同じ人間が別の役をやっている、という楽屋裏を、無理やり映画本体につなげるための、違和感を抱かせるための、”苛つき”だ。

 

”違う役なのよ””劇であることがばれるじゃないの、監督”だ。

 

主人公格の2名の男性が、シェルブールトロール船を降りて彷徨っていた過去を語ると、デュドルは言う。

 

シェルブールの床屋を知ってる。名前はエメ””デノワイエ夫人と結婚した”

 

ドュミ監督の母は床屋をしていた。そして「デノワイエ夫人」は、たしか第1作”ローラ”の登場人物だ。

 

”彼女は未亡人だったが、かつて踊り子だった子供がいた”

これが、ローラだろう。デノワイエ夫人はローラの母だ。

周囲の反応はない。デュドルはいう”ナント生まれだ”。子供は言う”アイスを買って”

母親はため息をついて言う。”盛り上がらない夜ね”

そう、監督もナントの生まれだ。

 


今までにドュミ監督の作品を見ていない観客(つまり私だ)にはなんのことかわからない。わからないシーンを無理やり割り込ませている監督が、自身が紡ぐサーガの一つのお話であるこの”ロシュフォール”を、観客にもそのことを伝えたくて挿入しつつも、”なんのことかわからない観客の皆さん、すみません”ということで、この母親のセリフであやまっているのだろう。

 

だが自身の映画製作とは、自らの中で紡がれるのを待つつながった神話的ストーリーの、順々の発出であるところのこのドュミ監督は、母親にこんなセリフを言わせつつも、無理やり各物語を接続させずにはいられないのである。

 

さて、この会食の翌日、双子姉妹は急遽町の祭りに駆り出され、大評判、姉妹はそのまま一座のトラックでパリへ行って一旗揚げよう、ということになる。母親は”そう、頑張ってらしゃい”だ。このあたり、成人した子どもにフランス人は干渉しない、ということだろうか。

 

ここで主人公格の男性2人をカフェで迎えた母は、昨日の祭りの記事が出た地方新聞を手に取る。双子は一面で大きく報じられている。”双子姉妹は殿堂入り”。

 

母親は考える。”何のこと?”男性陣2人も首をかしげる。”さっぱりわからない”

 

私もわからない。これもなんらかの形で”デュミ世界”を順番に見ている人にはわかるのだろう。この点は今後研究してみよう。

 

そして新聞をめくった男性陣は驚く。”デュトルだ”。

 

昨日皆で一緒に食事をしたデュトルが、大きな写真入りで出ている。

 

”殺人犯の自宅で凶器発見”

 

ここからの登場人物の反応で、この物語が”神話”であることがわかる。

 

母は驚き、新聞を受け取っていう。”彼だわ””(名前に)Zが抜けてるから怒るわ”

 

とこう来た。違和感が広がる。仮にも父親の戦友で、昨日も一緒に食事をした人物が、殺人犯だとわかったのに、この反応か!!??

 

そして男性陣の反応もそれに呼応している。にっこりして語り合う。

 

”死刑でなけりゃね”

 

にこにこしてそれ以上の反応はなく、”ホテルに戻って荷造りだ”ときた。

 

まったくこのニュースに反応なしだ。いや、皆さんいいんですか?昨日一緒に食事した皆さんの知り合いですよ。お母さんのお父さんの戦友ですよ??

 

母親がいう。”ケーキを切る時、ためらってたわ”

 

男性陣曰く、“殺人鬼め”

 


なんじゃ、これ??

 

意味が分からない、わからないのだが今日2回目見て、上記文章を書きながら仮説を立てた。

 

このシーンを見た観客は、全員が違和感を感じるだろう。そしてその違和感から悟るのである。”この物語は現実を描こうという話ではない”。

 

つまりは”神話”であり、”寓話”であるのだ。殺人がごく普通のこととして語られる”おとぎ話”であり”赤ずきん”であり、”ロバと王女”なのだ(監督は寓話”ロバと王女”をこのあと制作し、好評を得ている)。

 

そのことを、監督は敢えて観客に仁義を切ろうとしているのだ。

 

男性陣を見送って母親はそれほど深刻ではなさげにため息をついて言う。

 

”物騒な世の中ね”

”デュトル・・・恐ろしい男”

 

さいごまで違和感満載の演出だ。知り合いが殺人を犯したのに、その男がバラバラ殺人を行ったのちに会って、ケーキを切ってもらったのにだ。全く自分事にしていない。普通であればパニックだろう。”昨日ケーキを切った手で、その前に人体をバラバラにしていたのよっ!!!!!!!!!!”という反応が普通だろう。フランスでは違うのだろうか。

 

多分、デュトルは、別の物語(ローラやシェルブールの世界)から、厚かましくも、そして監督が諸作品がつながっていることを示したいがため、無理やりこの世界に闖入した別次元の人物、という設定なのだろう。それをこちらの世界の住人は(頭ではなく)直感でわかっている。だから冷たく接するのだ。所詮は別世界のもの。人間とも思えない。そんな感じだろうか。

 

最後に近いところ、ドヌーヴが未だ一度も巡り合わない”運命の兵隊”マクサンスが、除隊となって母のカフェに寄る。政情不安の中除隊になるとは思っていなかったという母に対し、マクサンスは言う。

 

”デュトルみたいに悲観的だね”

 

お、来た、と母は新聞を見せる。ここからまた、寓話度が高まる。

 

”これ見て””殺人犯よ”

”40年間愛し続けた女にフラれたの””カッときてメッタ切りにしたってワケ”

 

マクサンスは言う。”情痴事件か”そして笑う、はっはっは。

”デュトルがね”

 

ほら、よりよく知っているマクサンスさえこの反応。寓話でなければなんなのか。リアリティを敢えて、極力排そうとしている演出としか思えない。

 

まあ、もともと町のあちこちで、町民全員が歌い踊っているわけで、リアリティなどはないわけであるが。。

 

バラバラ事件自体は、前述の会食の前に新聞に出ている。つまりはデュトルが会食に参加したのは、殺人のあと、というわけだ。

 

”フォリー・ベルジュールで一番の踊り子だった”"名花ローラ・ローラはすでに60歳””犯人は手足を並べるのが趣味みたい”

 

話が前後するが、マクサンスはもともと母にカフェでこの事件を聞いて、現場に見にゆき、そこで双子の姉、赤毛のソランジュと出会っている。

 

画家であるマクサンスは、兵役で絵を描けないが、除隊になればパリで絵を描こうと夢見ている。シェルブールではギィは兵役で恋人と引き裂かれたが、今作では“政情不安で””除隊は無理だろう”と思っていた双子の母親の予想に反して除隊が叶い、最後の最後で(監督にも殺されず)理想の相手が乗るトラックに拾われる。

 

ギィとマクサンス、ドュミ監督が2つの愛の寓話に配した2人の男神は、まるでネガとポジのように自身の愛を見つけるのだ。

 

(殿堂入り、の意味はほんとわかりませんが、もしかすると双子の話は今作で終了、という意味かも。ローラの話は何作も引っ張ったのですが、という意味かな、とちょっと思いました)

 

 

 

 

 

ローラ ジャック・ドゥミ DVD HDマスター

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  • 発売日: 2019/01/25
  • メディア: DVD
 

 

 

 

 

 

 

天使の入江 ジャック・ドゥミ DVD HDマスター

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  • 発売日: 2019/01/25
  • メディア: DVD
 

 

 

 

 

精神障害について。

精神障害について。

 

悩む力、という本を読んだ。北海道のべてるの家についての本である。そこで新たな視点を頂いた。 つまりは、”障碍者支援とは、健常者や家族が支援して、障碍者が健常者的に少しでも働けることを支援することである”ということが常識である、という視線への疑問、という形の視点である。

 

実際の障碍者の皆さんがどのような状態にあるのか、千差万別、個人で当然ながら状態は全く違う。性別、年齢、生い立ち、それぞれの条件で全てが変わってくるものだ。 しかし、上記の視線は、そのことを考えていない、あるいは考えることを意識的あるいは無意識的に拒否した、自分目線での理解である。 という考え方を、この本から得たのだ。

 

公的支援は重要だ。だが、“支援”を”公的(=お上)”なところから”市民(=庶民、下々)”に向けて”やってやる”という構図(実際に行っている人々にはそうした意識はなくとも、制度設計上の)がどうしても、ぬぐいがたく、ある。 そこの奥底にあるのは”僕たち私達に迷惑をかけないで”という自分目線であり、”われわれの税金で(=つまり我々が施す立場で)”養ってやっている、という、無意識の傲岸さが、深く底に注意深く隠されていようとも、厳然と存在している、と感じる。

 

自由からの逃走、ということにつき、私は、”人は安楽に与えられて補償された不自由を、自己判断でリスクが伴う”自由”よりも、求めがちである”、という形で理解している。 だが、そこで、お仕着せの、与えられた一見自由に選んだような体を擬態する危険な楽しい”不自由”を選ぶことは、 たぶん魂を、スポイルする。 だが、そのことを、みんなに気付かせないように、”愉しい不自由”は設計されている。だから普通は気づかないのだ。

これはいわば古くはソクラテスの”洞窟の比喩”、つまり洞窟を覗き込んで(=真実を求め到達して)、真実を見たものは、振り返って見えた我が影を見て、それが影であることに気付く。そしてそれを気づいた人を、世間は許さない。そこにあるのは羨望的ジェラシーだろうか。そして世間が、ソクラテスに対して、自らが自らで死を選ぶようにしむけたこと、いわば厄介払い、真実を隠そうとしたこと、 とも地続きである(注:ソクラテスの洞窟の比喩については、個人的な直感的解釈です)。

普通常識(少なくともこの日本国で)と言われるものには、こうした危険がある。そして、危険は認識されていない場合がほとんどだ。だが魂はたぶんその奥底では感じている。理解している。

 

しかしながら一方で、どこかでそれを表出しながら生きることの困難さも理解している。 そこを”エゴ”が利用するのだ。いや、別にエゴとは他の人格や悪魔のことではない。 たぶん単なるDNAである。生存本能である。もっというと、動物である、生き物である、ということである。 障碍者の個人個人が、個人個人でできる生き方をしながら生き延びることは実はめちゃめちゃ困難だし、もしかすると”コストが高い”という”隠れた優生思想”さえまだまだ含まれていそうな事象である。

 

だがそうであることを体現し、そして生きることを示しているがゆえに、今回この本を読んで、”べてるの家”で暮らす人々の存在が、魂にぐさりと、来たのであろう。

 

 

悩む力

悩む力

  • 作者:斉藤 道雄
  • 発売日: 2002/04/17
  • メディア: 単行本
 

 

彼我について。

彼我について。

自分をこの肉体の皮膚の内にあるものが全てと思う(精神や魂はこの中にあると仮定)のが人の世の”普通”であろう。皮膚から外が即ち自分以外。自分ということばが、”自ら”に”分け与えられている部分”ということだと解釈すると、それ以外は”他”に”分け与えられている部分”と考えられる。

 

分け与えられている、ということが同じ立場だとすると、そこでは“自分”も”自分以外”も同列となる。分け与えられている万物同士は、同じ一つの別れたものだ、というのが、今の私の感触としての”梵我一如”だ。

 

梵を”私以外の全て”と解釈するのだろう。

 

今朝の新聞でよい歌を見つけた。

”じゃんけんで負けて蛍にうまれたの”

40歳で詩作(俳句)の世界に飛び込んだ現在84歳になる池田澄子氏の”昭和期の”作品ということだ。

虫好きの私には第一インプレッションでまずは大好感、ではあるのだが、この詩の深みや滋味はそれだけではないだろう。

生きている蛍、はかなく光る蛍。それは果たして儚いのか。私が儚いのではないだろうか。

 

生まれて死ぬこと、これに長さでの優劣はあるのだろうか。1シーズンのみの命を”儚い”ということが”人生100年時代”の我々に本当にいうことができるのだろうか。

美しさ、ではひとは到底蛍にはかなうまい。

 

この世に生を得るときに、”なににうまれたいかな”と”雲の上の髭を生やした慈顔の西洋老人”に言われたなら、

”はい、私は人に生まれたいです”

”私もそうです”

”いや、こまったのう、人のわくはあとひとつじゃ。しかたない、おぬしら2人(2魂か?)でじゃんけんできめい、うらみっこなしじゃぞ”

ということになる。

 


そしてこの世に生まれた魂二つ、彼女は蛍に、我は人に。

彼女が我で、我が彼女であったやもしれぬ。

 


だが果たして、この人としての生、蛍としての生に得した損したはあるのだろうか。

確かに人は長命だ。だがそれが?ゾウガメは300年は生きるという。

 


ゾウガメは人より幸せだろうか(そうである気もする)。たぶんそうだ。

生まれて生きている奇跡。それをそう感じられるわたくし。

 


蛍と私は運命が分かれたようでわかれてはいない。ここでこうして邂逅する、永遠の瞬間として。

彼我融合。彼我一如、梵我一如。

詩はそれをギフトとして人々に渡してくれる。それを受け取る私/あなた/あれ/これはさまざまに受け取り感受する。それを良い、と思うものもあろう。それをたいしたことではない、と思うものもあろう。だが、それでいい。それが、いい。

一篇の詩作が、わたしに与えてくれる思いは、ここではこのようであった。

先生は普段から自と他とを切り離して考えておられませんでした。私も先生の言葉を噛みしめているうちにしばしば理屈抜きに自が他につながり、他も自に関わっていることに気付かされるのでした。先生はその境界のない世界を全身でつかんでおられたのだと思います。

岡村美穂子 鈴木大拙とは誰か P.35 岩波現代文庫 2002年

 

一如を体現する存在としての鈴木大拙に接した若き岡村美穂子さんが受けられた思いも、はたしてこのようなものに通じるものであったろうか。