夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

物語の力。

この世界に何かの縁で奇跡的に生まれていま生きている。

 

時間や空間、という人間が発明した考えに縛られつつも、過去や未来、というものが無い、という意味では時間という概念は誤解を生む。そこでは”時間はない”という方が、多分いいのだろう。ただ、今、はある。この瞬間は、ある。ただこの瞬間しかない。それを”時間”といってもいいのだが、時間といいうと”過去”や”未来”がセットで想起されるようになってしまっている(=ドクサ)ので、それは”永遠”といったほうがいい。

 

永遠、というとなんだか宗教みたいだが、宗教でいう”永遠”のことではない。過去も未来もないこの瞬間だけですよ、という意味での永遠だ。永遠に”続く”ではない。続く、とはすなわち”過去”や”未来”の別の呼び名だ。

 

永遠の繰り返しであるこの世界で、すべては繋がっている。これも宗教的なものではない。単純なことだ。名称はわからないが、最小の単位がなにかあり(素粒子であるのかもしれないし、違うのかもしれない)、すべてはそれでできている。ただ濃淡だけ。宇宙とは、それのことだ。

 

宇宙には多分限界がない。境界、というものは考えられない。だって、境界があったら、境界の向こうがあるわけで。真空だろうがなんだろうが、そこは空間だ。

 

限界のない、境界のない世界にわれわれはいる。それだけで不思議すぎる。奇跡すぎる。だれかがそういうことをPLANしたわけではない。ただそうして、ある。

 

なので誰も、なにも、義務はない。理由もない。そこから、出発し、でも生まれたときより世界を良くして去ってゆきたいものではある(どこに?去るとはどこからどこに??)。

 

そのためには村上春樹氏は、”物語の力”を信じて、物語を世界に提示してゆく戦略をとっている、とおっしゃる。

 

これはただ、物語を紡ぐ能力のある村上さんがおっしゃっているだけのことなんんだけど、とても正しい姿勢だと、感じる。どうしてかは、わからないが。

 

森博嗣氏が、20年以上務めた大学を退官される際に、大学に頼まれていた書いた文章を読んだ(「森には森の風が吹く」2018年、講談社)。

P.215‐216

 人の視線というのは不思議なもので、ずいぶん遠くからでも、その人がどこをみようとしているのか、その視線の先をだいたい知ることができる。感情にコントロールされた表情以外で、人の顔が持っている最も重要な情報の一つではないか、と思われる。
 これは、目で見る「視線」だけに限った話ではない。その人物が、あるいはその集団が、今どこに注目しているか、何を見ようとしているか、という「姿勢」は、なんとなく直感的にも伝わってくるものであるし、また、それによって、その人間、あるいは組織が評価されることも多い。ときには、これまでに何をしてきたのか、ということよりも重要となる。

この文章は、政治からの圧力で、本来の大学の目指すべき方向ではない方向に嫌々なのだろうけれどもとりあえずは行ってしまっている、大学を批判しているものだ。

 

そんな大学の想いを、人は、学生は、感じる。きちんと、責任ある態度で世界を前に進ませよう、という視線ではない、と感じる。なぜだか、わかるのだ。

 

政治と、学問は、相性がわるい。政治には学問に対する基本的なルサンチマンが、あるのだろう。劣等感、といってもいい。”無駄なことをやらずに現実的なことをやらんかい、ボケ!!”である。

 

そう恫喝されたら、ビビりますわな、普通。自身は国家公務員だし。私立も助成金だのみだし。

 

ビビるのは、普通だ。個人の、生活が脅かされる。だが、ちょっとまて、大学とは研究する姿を通して、学生をも教育する場だ。

 

そこで”びびり、現実的なことしかやらせてもらえない、それが人生、それが大学”という現実を、その”政治的にあらまほしき姿の学問”を、学生に深く理解させ、実践させねばならない。そこで生み出される人間は、アップデートされた社会の歯車だ。短期的にはすごく役にたって、長期的には使い捨ての、歯車だ。使い捨てだから、毎年補充せねばならない。

 

それこそが政治による学問への、究極の復讐なのだ。

 

それでいいわけがないじゃないか、と森氏はおっしゃる。村上氏が物語の力で世界を前に進めることを目指されるように、大学も学問の力で世界を前に進める気持ちをもってほしいと私も思う。学生はその気持ちを感じて、大学に入り、共に世界を前に進めたいのだ。

 

政治をする人々の”役損感”が問題なのだろう。”こちとら糞みたいな現実のハンドリングをわけのわからない「有権者」の顔色をみてへいこらしてやっているんだ。役得がなければやっていられない、と思ってちょっとやれば又たたかれてすぐ辞任だ。役損としか言いようがない。それをなんだ、偉そうなことを金もらって言いやがって。なにが大学だ。なにが教授だ。しょうもない夢みたいなことを言わずに、現実的な学生の教育機関であることに徹底せんかい、カス!!”である。

(すみません、口がわるくて)

 

生業として、2世や3世として、議員をやるとそういう本音になるだろう。多分私も同じ立場であれば、イライラしてそう思う。仕方ないことだろう。私も、あなたも、凡人だ。

 

だが、そうであれば、自身の限界はそれまで、と思い、次代を、将来をよくしよう、と思う人が政治家であってほしいとは思う。あるいは自分は無理だが、そういう人を応援しよう、という人では、あってほしい。

 

あつかましい、願いだろうか。多分そうだ。だが、生業の人にやめてくれ、とまでは言うつもりはない。生きるためには仕事が必要なのだ。たとえ議員であっても。

 

自分が生きることは大切だ。だがエゴに、DNAにコントロールされていることに自覚的であることも、重要であろう。

 

やはり、哲人政治が、理想だろう。池田晶子さんは、政治には全く興味がないとおっしゃった。だが、哲人による政治しか解がない、と感じてらしたとも思う。ご存命であれば、と強く思うところである。

(善悪、というものは本当に相対的ですね。ですが相対的ではない本当の“善”もあるように思います)

 

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