夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

澁澤龍彦とアリス。

「少女とは人間の中で最も(あからさまに)性的ではない存在であり、生をいちばん安全な場所にしまっている存在であるが、一切の性的なるものを、そのような少女の中に封じこめてしまいたいという願望こそ、ドジソンが少女に惹かれる大きな動機をなしていた」

イリアム・トンプソン(英)「牧童としての子供」高橋康也

 

上のトンプソンのドジゾン評について澁澤龍彦はその論評、「アリスあるいはナルシストの心のレンズ」の中で引用しつつ、こう言う。

 

私は、『アリス』の作者たる偏屈な独身者ルイス・キャロル氏の精神の秘密を白日のもとに暴き出した、これ以上に的確な評言を知らない。私もまたトンプソンと同様、かねがね『アリス』のなかに、最も性的なものと最も純潔なものとの秘密の共存を愛してきた者のひとりだからである。

自身の認識と、トンプソンの認識の共通点を、半ば秘密を告白するもののように言ったうえでこう続ける。

アリスとは、独身者の願望から生まれた美しいモンスターの一種であろう。

私がアリスと初めて出会ったのは、かのディズニーアニメ、というよりは当時多く発行されていた(今もあるかもしれない)ディズニーアニメをベースに、その名場面を絵本化したいわゆる”ディズニー絵本”を通してであったろう。

 

幼少期には、白雪姫やダンボ、眠れる森の美女や101匹わんちゃんといったような作品は、もちろん”ディズニー”という人が創作した物語群である、と思っていた。すこし年令がいくようになると、どうやらそれぞれのお話には原作があるようだ、ということをうすぼんやりと感じた。

 

そして出会ったのが原作と、テニスンのかの版画版アリスである。もともとディズニーは実際の少女と共に、テニスンの挿絵を参考にしているので、ディズニーの後に出会ったテニスンの絵は意外なほど違和感がなかった。

 

だが、いわゆるセルアニメのある意味ツルリとした絵の質感とくらべ、黒インクが深く紙に食い込んだ版画の画面は、ディズニーのアリスに負けず劣らずの魅力を、私に感じさせた。

 

あの、少女の身体にいくらかデフォルメされた、しかし日本人には成人にもめったに見られない美しい”大きめの”顔が乗っている。すっかり欧米の版画の魅力に憑りつかれた私は、そのあと荒俣宏氏の著作に出会い、西洋妖精画の世界にどっぷりとつかったのである。

 

だが、アリスはなぜか引き続き、私の中では大きな位置を占め続けた。普通の人間なのに?幻獣好きなのに?

 

言語化できてはいなかったが、そこをうまく澁澤氏が表してくれたようだ。

 

そう、アリスとは一種のモンスターなのだ。通常のひとりのニンゲンではないのだ。

 

モデルとなったアリス・リデルさんはドジソンにとってはきっかけであったのかもしれない。きっかけ、と本人は思っておらず、彼女の存在のおかげであの物語は生まれたのであるが、アリス・リデルとしてはそのままの年齢で留まることはできないのだ。その物語の中以外では。

 

それを、ドジソン氏は実感したのだろう。写真の中に永遠に少女たちの一瞬の姿を閉じ込めようとし続けた姿を見てもそう思う。”変化”に彼は耐えられなかったのだ。

 

モンスター、とは形状や外見のことでは本来ないだろう。人はすべてが違っているが、その違いが際立っている、あるいは際立って見えるものたち。

 

アリス、としてドジスンが抽出した脳内の存在は、いつしか本人を離れて、独自の、永遠に異世界へと訪れ続ける存在としてのモンスターに、なってしまったのだ。

 

だが、見た目は永遠に変化しない。

 

いや、変化しないがゆえに、モンスター、なのだが。

 

→この世界には、どうしてもアリスの存在に、反応してしまう一群の人たちがいるようですね。。。私を含めて

 

アリス幻想 (1976年)

アリス幻想 (1976年)

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