夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

古雑誌を買った。

古雑誌はタイムカプセルのようなものである。

 

毎年人間ドックのあとにだけ行く古本屋がある。自転車でドックへ行く所為もあり、病院での待ち時間や終わったあとに、近くを自転車でうろつくわけである。

 

最近はブックオフにも古本屋にもあまり行かないようにしている。理由はここでもよく述べているのだが、もう本が増えるのが辛いからだ。

 

最近よく読む、森博嗣氏の本を読むと、氏は本を読むと忘れないので、読んだあとは処分されるという。書籍を刊行される際に、見本として自著が贈られてくるものだけでも膨大な量となり、それを貯蔵するためだけでも大きなスペースを占めている、という。捨てるわけにもいかず、何度も引っ越すなかでそういうスぺースを含んだ(つまり大きい)家に住み替えていらっしゃるとのことで基本的には問題がない、ということだ。

 

つまりは、問題を把握されて、対応されているわけだ。一方私の場合は狭い(3畳か?)自室限りである。ご覧いただけないのだが、自分ではそれほど気にはならないが、いわゆる”足の踏み場がない”状態であることは認識している。

 

では、それで困っているのか、というとまあ、なんとかいろいろ作業ができる場所は(ものをどければ)あるわけで、本質的には困っていない、というか、なにか例えばこの狭苦しい部屋で時間を過ごしていれば、絵を描いていれば参考図書が発掘されうるし(あくまで"うる”であるが)、創作の女神の機嫌がよくないのであれば、積読山のなかを漁れば未読の”魚”たちが大漁である。

 

ということで、問題というよりはむしろ”汚い桃源郷”であるのだが、しかしながら追加人員というか、追加の魚たちというのか、とにかく新入社員雇用(相手は本ですが)が難しいこともまた、人に言われる前に感じているところである。

 

はっきり言って、まだまだ本は入る。だがそれは床に積むしかないのである。

そうすると、なかなか本の再発見は難しい。いや、再発見できないことが凄くこまるわけではないが、一方で再発見がたやすいことへのあこがれだってあるのだ。

 

そういう葛藤がストレスでもあり、エゴに訴えるエゴの存在理由(つまりは表面的な”生の理由”)にもなるのだが、まあ、そういったストレスと長年付き合ってくる中で、”まあ、もうとにかく将来読むかも、と思って本を買うのはなるべく避けよう”、という心境に、何故か至っているわけである。

 

ということで、古本屋に行けば頭のなかは禁断の慣用句、”古本との出会いは一期一会”(まあ事実ですが)が鳴り響き、そして1年間も行っていないと当然欲しい本が2-3冊はあるので(厳選ベースでも)、買わないわけにはいかないことから、この”ドックのあとの古本屋行き”は、まあ、まずいバリウムを我慢した自分への御褒美(このことば少しいいわけめくのと、デパートの揉み手を感じる言葉でもあり、ちょっと気持ち悪いのですが)ということで許しているわけである。

 

そんな葛藤を抱えてゆく古本屋、ここは店主と思しきかたのセレクトが好きで、これは!という本と何度も出会ってきた店でもある。

ユイスマンス さかしま 澁澤龍彦訳 桃源社版ハードカバー

室生犀星 蜜のあわれ 新潮社版 (箱カバーには著者自らが拓した金魚の姿あり)

・(でかすぎて買っていないが) 白川静 字通

 

などなど、黒めの本で愛蔵したい本に数々であっている。

 

今回も、欲しい本が5冊ほどあったのだが、2冊だけに厳選して購入した。

・版画藝術 1978年No.22 500円

千夜一夜物語絵画集 大場正史編 3500円(昭和44年刊定価1,200円)

である。

 

前者は現在も発行されているが、当時は1冊に1作、実際の版画が織り込まれており、定価2000円。そういう特殊性もあり、前に(1年前か((笑)))行った時は2000円の値がついていた。多分、であるが発行当時より版画の人気は高まってはいないと思うし、この田舎(失礼)ではなかなか古雑誌に2000円払おうという奇特の士も少ないのであろう(鶴舞であれば可能性あるだろうが)。

 

私は2015年1月に銅版画を始めて、もう6年にもなる。早いものだが別に学校ではない、版画の歴史などをぽろぽろと先生方の言葉から垣間見る程度であるので、昔の版画事情は知らないのだが、この本を買ってとにかく1978年の雑誌であるので、この日本で創作版画の機運を盛り上げた方々が現役で創作されている姿が掲載されていたり、訃報が載っていたりする。

 

勿論お聞きしたことがない名であるが、今の時代、WIKIPEDIAで調べればこうした方々がその後どういった経歴を刻まれることとなったのかも含めて見ることとなる。それはあたかも、1978年にいる自分が、2021年の未来を見ているがごとき、気分をもたらすのだ。

雑誌で若手のホープとされている方が、60代で亡くなっている。一方ですでに重鎮中の重鎮という感じの方は100歳を超えるまで生きられた、という事実を知る。

 

ランプの魔人が仮に人間のこうした未来を見ることができるのであれば、そしてそのことを人間に伝えることを禁じられているのだとしたら、今の私と同じような心境となったのかもしれない。

 

そう、もう一冊はそのものずばり、千夜一夜物語のイラストを様々な版から集めたものである。編者の大場正史氏は、ちくま文庫にも入っている”バートン版千夜一夜物語”の訳者であったとも記憶する。

そして本を購入してみると、編者の大場先生は全4巻別巻1巻の”新千夜一夜物語”を刊行中であるが、同書発行後の昭和44年7月17日に急逝され、本書解説が文字通りの絶筆、未刊行の3,4巻の発行は中止、というチラシがはさまれていたのであった。

 

古本はかように面白い。

 

版画に関わる人々の想い。千夜一夜物語の探求を文字通りライフワークとされた大場氏の想い。

さまざまな想いが伝わる。伝えられえる。

あたかも、タイムマシンのように。

 

(また本が、増えちゃいました・・・)