夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

美人は、美人だ。

夢を見た。

会社内で異動があり、場所も移動。
東京のどこかで、自分の机はなく、PCも共有。(ちょっとショックを受けた気がする)

17万円をみんなで1ヶ月で分けて(課員が何人いるかわかりませんが)過ごす。

1万円貰い、明日までにこの金を使い、花の絵を描いて来い、という。画材は自由、別にそれを売り物にするわけでもない。気楽だ。
(だが、1万円を使い切らず、生活費として残す必要があるような気がして、頭で計算を始めていた)

なんだかわくわくして会社を出る。
道にはホームレス。
だれか同僚といっしょ。自分の家は引っ越したてで、いろいろなしかけがある。

まあ、そんなところで眼が覚めた。

辻褄が合っていないが、自分の働きたい姿があるようで、興味深い。

”こんな会社で働いて見たい”というタイトルになるだろうか。
(夢にいちいちタイトルが必要かどうかだが)

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昨日は芥川賞作家の思いと、アニメ製作者の実感をベースに、受け手が主人公になりたい、という今までは思っていても実現できなかったことが容易に可能になったこと、と、そうされることで、従来本質的に供給者(上位者)としての精神的位置を保ち、それが製作のモチベーションの一部であった製作者が戸惑い、失望し、あるいは製作するモチベーションの侵食を感じ、反発していること、そしてそうしてもそういう流れは今後主流になるであろうこと、なぞを書いた。

自然にあった、製作者としての”供給してあげている感”をモチベーションにしているクリエーター、というのは、いままで目立たなかったが、今後はそれがキープできないが故に、それが大きなモチベーションであるのなら今後は悩みながらの活動となるであろう。

そして、それは純粋なクリエートしたい、という思いとは別の要素であろう(この"純粋な”というところが難しい。そも物語をメッセージとして発信するタイプの創作では、供給してあげ、自分の思いを主張する=クリエート、という面もあるだろう。逆にクリエートが自分のため、というのは、ともすれば独りよがりになるリスクはあろうかと思う。しかし、僕はそうした孤独な自己表現が,たまたま世間に受け入れられる、という方法論こそクリエートの王道(自分にとっての、だが)とより感じる者である)。

リエーターはクリエートのみ行い、素直な受け手”のみを相手にしていればいいのか。手で作り出すアニメ、という手法が持つ難しいところだろう。俳優を使って映像を取るのであれば、それほど侵食されない。絵は素人も書ける。いじりやすい。そうした本質的なアクセスしやすさが、アニメの魅力であるのだが、それは作者のモチベーションダウンに直結しうる弱さでもあるのだろう。

いろいろな事例を考えると、アニメ(マンガ)、というジャンルの持つ特質(しんどさ)が見えてくる。アニメ、マンガ関係者は比較的活動期間が短い印象である。マスの対象者がどうしても特定されがちであることが原因の一つかもしれない。

このテーマで考えていて、最近引っかかっていた数々が、結構この構図で説明できる気がした。

まずは、ゲド戦記。好きな話であり、ジブリでの映画化とその印象、作者宮崎吾朗氏と(あるのかどうかわからないが、自分はあるように思う)父親駿氏との内面的な葛藤、あるいは確執。作者ル・グインの映画に対する批評とその理由。

ゲド戦記に関する印象は、とにかく"痛い”だ。まずはル・グインの評価。若い頃ゲドが好きで、映画化をル・グインに願い出るが、ディズニー嫌いのル・グインのアニメ一般への評価の低さと嫌悪感から一旦拒否された駿氏。製作者としてのプライドもあろうからここで拒否されたことは当然引っかかるだろう。その後トトロ等で宮崎駿の実力と方向性を知ったル・グインは、そうした"駿ワールド”を持ってゲドが映画化されることが良いことだと気づく。僕もそう思う。例えばナウシカのマンガを読めば、その空気、登場人物がゲドの世界の住人と同じにおいを持っていることに気づく。幸せなコラボとなったであろう。しかし、宮崎はル・グインに拒否されたあと、それにインスパイヤされた自家版というか、自己解釈版ゲド、というべき”シュナの旅”を完成させ、自らの中のゲドを昇華させてしまった。もうだから、あとでル・グインからアプローチされたときに、”もう自分は出来ない”というのは当たり前すぎる反応であったろう。

ここで苦しいのが会社の経営というヤツだ。ジブリ、というが、世人にとってこれはフジコ・プロのように宮崎駿の個人事務所、という印象が強いのではないだろうか。アニメという仕事の特色として、同時に多数の人間が働くので、勿論正確には宮崎だけの会社ではない、とジブリは言うだろう(となりの山田くん、とかはキャラのアクの強さでジブリ色は希薄だ。しかし、なのか、だからなのか、売れなかったが)。正確には宮崎の作品がジブリとしてヒットする確実性を持っている、というべきかもしれない。

会社としては、指輪物語があって、ナルニアがあって、ハリーポッターもあって、ここでゲドだな、というのはごく当たり前の感覚で、実際”ここでゲドか!”と僕も映画化の話を聞いたときはそのタイムリーさに納得し、ビジネスセンスの高さを感じたものだ。
しかし、ここで、”走り回る””明るい””救いのある”ゲドを予感したのも事実である。それはハイジやコナンで感じる、本質的に強くて、イイひとの話、が宮崎の持ち味であるからであろう。

見ていないときは、そうした”健康押し付け感”を感じ、ハイジを見たくなかった。しかし、見ると、そんな押し付け感は自然に圧倒的にハイジの”善い人”感で押し流される。正直これには参った。宮崎駿、凄い、としか思わなかったし、いまもそう思う。

圧倒的な世界感。これをクリエートするのは、やはり余人には無理だろう。これは宮崎駿、という作家の個人的な色なのだから。アニメ製作中の宮崎の様子を見たことがある。絵柄を統一するよう、アニメーターを叱責する姿、これはまさに個人名を冠したマンガの製作現場と同じである。絵柄がぶれない。ほとんど全ての絵コンテを描き、そしてその絵コンテを見れば映画でその再現性に驚く。宮崎の作業はマンガと本質的には変わらない。しかし絵が動く。これが凄い。

画力が凄い。当たり前だが、しかし絵コンテではキャラの顔が省略されることが殆どだろう。コンテ作者が絵を(プロとして)描けないのがその理由だろうが、宮崎は違う。宮崎は手塚のアニメを認めないが、基本的手塚がマンガでやっていたことと同じ事を、宮崎はアニメで行っているのであるから、他事業の話とはならない。ガチガチのライバルとして感じているのだろう。

”マンガでは負けるかもしれなが、アニメでは負けるわけがない”。

そんな状況で、ゲドをやると決めてしまえば、宮崎駿が関係しない、とはジブリの経営としては言えるわけがない。しかたがない、うそとはいわないが、ル・グインに会いにいったジブリ関係者は宮崎駿は今回は関わりませんが、画面構成(だったか?)は関わります、といった表現をしたようだ。ル・グインとしては宮崎駿は製作総指揮は行わないが、きちんと色付けはする、という風に取ったと思う。
また、世間には、駿氏の息子の吾朗氏が初監督、という売りでいけば、逆に興味を引く。苦しい判断だったろうと思う。ジブリの名前はそれほどビッグになっているのだ。

吾朗氏が描いたというドラゴンの絵、あれは素晴らしかった。この絵でいきます、ということで見せられたとき、僕も、あ、吾朗氏、なかなか画力があるわい、と思った。
駿もこの絵を見せられて、黙ったという。本当に出来るのか、と言い続けたそうだ。辛いところだ、駿の問いは”(自分みたいに)できるのか”だったろうが、吾朗氏の答えは”(自分なりに)できます”だったろうから。

一介の創作者ではなくなった、ジブリという会社を背負った存在となっていること。駿氏がこのときほど実感したときは無かったのではないか。