夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

村上春樹と宮崎駿。

正月があけて3日間会社にいくと、すっかり気持ちの中では通常運転に戻ってきた感じではある。

一方で年末年始でつい食べ過ぎ運動不足で、体重もさることながらなんとなく胃や腸の調子が冴えないのだが、こちらも通常の食事に戻してゆくことで徐々に戻してゆこうと思う。

やはり人も動物、寒い時期は太り、暑い時期はやせるのではないだろうか。冬眠する動物であればその前が一番太るのだろうが。。

昨日は図書館で村上春樹の「1Q84」BOOK2 を借りた。年末に借りたBOOK1は正月休み中に読み終えて、本当はすぐに次を借りたいところであったが、図書館があいていなかったのだ。それで再びBOOK1を読みだした。通常のフィクションであればストーリーが分かってしまえば2度めは時間をあけたくなるのだが、やはり文章を練りに練っている村上さんの作品はこの短い期間での再読でも実に楽しいことを発見した。

一読めはどうしてもストーリーの運びが気になって、細かい文章に込められたものを見過ごしがちとなるのだ。2読めであれば、ストーリーは分かっているので、DETAILに目が行って、それを味わうことができる。表現を表現そのものとして、楽しめるのだ。

情報としての読書であれば、早く、多くを得たくなるが、村上さんの本はそうではない。では単なるエンターテイメントかというと、それも違うようだ。

勿論読みやすさをいつも最大に追求されている村上さんの文章を読むこと自体が、エンターテイトされる体験ではある。だがうまい食事が味わいとともに身体にとっての滋養となるように、読みやすいなかになにか大切なものがこもっていて、魂に触れてくるのだ。

先週TVで「千と千尋の神隠し」を見た。あえて説明できない描写を何度目かに見るたび、表現者としての宮崎駿氏の奥深さと深みを感じる。

これは動画の構成や動きのすばらしさ(何十年とアニメを見続けているが、やはり氏の場面設定は別世界であるし、まねることは困難だろう)で陶然としたあとにのこる、なんらかの余韻、この余韻こそがこの作品を世界的な名作としたのであろう。

アーシュラ・K・ル=グインが昔は断ったジブリ映画化を、のちにジブリ映画を見てから何年後かにOKした気持ちがわかる(たしかトトロ)。自身の魂を削った作品が、宮崎駿の手でさらに違った深い意味が与えられるだろうと、思われたに違いない。

だが、宮崎のその表現者としてのタイミングが、残念ながらもうゲドには向けられなかった。作りたい、と宮崎が思った瞬間にしか、作れないのだ。アニメとは原作をあしがかりに自らの作品を作ることだ。少なくとも宮崎にとっては。

村上氏はその作品を連載で発表するわけではない。書き下ろしだ。書き下ろしとは、自身のタイミングと時間で、制作され完成されるものである。

宮崎氏にとってのアニメもそうであろう。いや、宮崎氏だけではない、すべての表現者は、基本的にそのように制作したいし、制作するのだ。

宮崎氏はすでにそうした境地にいることができる実績と経験がある。村上氏もそうだ。高畑勲氏もそうであり、かぐや姫の物語は、膨大な時間と費用がかかったときく。

本当に作者が作りたいように取り組んだ作品、というのはそういうものだ。もちろん様々な要因はあるだろう。だがアニメージュで宮崎がナウシカの連載を始めた時には、ただ描く、描きたいものを描きたいように描く、という場が、間違いなくあった。

ル=グインにとってのゲドもまた、そのような作品であったのだろう。

魂をこめる。魂がこもる。

こめようとしてもなかなか難しいが、作っているうちに徐々にこもってゆくこともあるだろう。

人はみな、そのような作品に接すると、それがそのようである、とわかる。もちろんすべての人ではない。多分それを、受け取る準備にあるひとだけが、であるが。

ゲドも宮崎作品も村上作品も、そのような位置にいるものだ。できれば魂作品を生むことのできる作り手二人、ル=グインと宮崎のコラボを見てみたかった気がする。たぶん、作品完成時のル=グインの感想は、「これは私の作品そのものではない。宮崎の作品ではあるが、私はそれを一観客として大変に楽しんだ」というものになるのだろう。

 

そんな、予感がする。

 

(やはり人種の違いによるタイミングのずれ(宮崎作品を見ていないときにル=グインは映画化提案を受けた)は、ありますね。それも運命、そういうものだ、と感じます)