夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

彼我について。

彼我について。

自分をこの肉体の皮膚の内にあるものが全てと思う(精神や魂はこの中にあると仮定)のが人の世の”普通”であろう。皮膚から外が即ち自分以外。自分ということばが、”自ら”に”分け与えられている部分”ということだと解釈すると、それ以外は”他”に”分け与えられている部分”と考えられる。

 

分け与えられている、ということが同じ立場だとすると、そこでは“自分”も”自分以外”も同列となる。分け与えられている万物同士は、同じ一つの別れたものだ、というのが、今の私の感触としての”梵我一如”だ。

 

梵を”私以外の全て”と解釈するのだろう。

 

今朝の新聞でよい歌を見つけた。

”じゃんけんで負けて蛍にうまれたの”

40歳で詩作(俳句)の世界に飛び込んだ現在84歳になる池田澄子氏の”昭和期の”作品ということだ。

虫好きの私には第一インプレッションでまずは大好感、ではあるのだが、この詩の深みや滋味はそれだけではないだろう。

生きている蛍、はかなく光る蛍。それは果たして儚いのか。私が儚いのではないだろうか。

 

生まれて死ぬこと、これに長さでの優劣はあるのだろうか。1シーズンのみの命を”儚い”ということが”人生100年時代”の我々に本当にいうことができるのだろうか。

美しさ、ではひとは到底蛍にはかなうまい。

 

この世に生を得るときに、”なににうまれたいかな”と”雲の上の髭を生やした慈顔の西洋老人”に言われたなら、

”はい、私は人に生まれたいです”

”私もそうです”

”いや、こまったのう、人のわくはあとひとつじゃ。しかたない、おぬしら2人(2魂か?)でじゃんけんできめい、うらみっこなしじゃぞ”

ということになる。

 


そしてこの世に生まれた魂二つ、彼女は蛍に、我は人に。

彼女が我で、我が彼女であったやもしれぬ。

 


だが果たして、この人としての生、蛍としての生に得した損したはあるのだろうか。

確かに人は長命だ。だがそれが?ゾウガメは300年は生きるという。

 


ゾウガメは人より幸せだろうか(そうである気もする)。たぶんそうだ。

生まれて生きている奇跡。それをそう感じられるわたくし。

 


蛍と私は運命が分かれたようでわかれてはいない。ここでこうして邂逅する、永遠の瞬間として。

彼我融合。彼我一如、梵我一如。

詩はそれをギフトとして人々に渡してくれる。それを受け取る私/あなた/あれ/これはさまざまに受け取り感受する。それを良い、と思うものもあろう。それをたいしたことではない、と思うものもあろう。だが、それでいい。それが、いい。

一篇の詩作が、わたしに与えてくれる思いは、ここではこのようであった。

先生は普段から自と他とを切り離して考えておられませんでした。私も先生の言葉を噛みしめているうちにしばしば理屈抜きに自が他につながり、他も自に関わっていることに気付かされるのでした。先生はその境界のない世界を全身でつかんでおられたのだと思います。

岡村美穂子 鈴木大拙とは誰か P.35 岩波現代文庫 2002年

 

一如を体現する存在としての鈴木大拙に接した若き岡村美穂子さんが受けられた思いも、はたしてこのようなものに通じるものであったろうか。