いつからだろうか。
言葉を書き留めるようになった。
言葉は思われているとおりの言葉ではない、ということを初めて意識したのは、”ゲド戦記”を読んだ時だった。
明確な記載は覚えていなのだが、言葉には力がある、名前には力がある、人は真の名前を伝えたとき、相手にすべてを委ねることになる。
たしか、そのような考え方を受け取った覚えがある。
そのことから、単に情報を伝えるだけの”言葉”とは別の、いわば魔力的な、力を秘めた”言葉”があることを感じるようになった。
そうした言葉を意識的に紡ぐ一群の書き手があることを感じることもあった。
その第一が小林秀雄であったろうか。
一文を読んで意味をつかむのに非常に時間がかかる。
一読、意味がつかめない。
初めて小林秀雄に接したときは、たぶん高校生の時で、僕はその時主に翻訳もののファンタジーが好きだったので、あくまで小説を読む読み方が文章に接する手段であった。
読む、スピードもかなり速かった。とにかく話の筋を、つかむ読み方だった。
同じ作法で小林の文に接すると、躓く。進まない。読んでいって、頭にはいらない。
なんだ、これは。
そして長らく小林の文を敬して遠ざけることとなった。
再び小林に接することになったのは、池田晶子さんがきっかけであった。その熱い思い。
池田さんの文が頭に入りやすいのは、それを意識して”哲学エッセイ”として我々に供していただいたからであろう。初期の文は、なかなか歯がたたなかった覚えがある。
違う目で小林に接する。ああ、そうだったのか。
やっとその言葉にかける思いを感じつつ読み進めることが、少しずつできるようになってきたように思う。
これは時間がかかる。しかし、贅沢な、時間だ。
そのような読みの、言葉の、時空を示していただけたこと、池田さんに感謝しても感謝しきれない。池田さんの文に出会うことがなかったら、いったいどのような人生だったのか。
考えると恐ろしい。
小林の、文ではないが最近気になったことばから。
”不安定を覚悟することが、人生の免疫となる”
仕事のとき、唱えている。