夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

入学式。

長男がなんとか大学へ合格、昨日は入学式へ。

思えば遠くへ来たものだ。自分が入学(入学式の記憶はもう定かではないが)したのは、つい昨日のようだ。朝泣き叫ぶ長男を片手に抱いて、公園へ行ったのも、つい昨日のようだ。

生きる、というものをどうとらえるのか。この矢の如き時間の感覚を改めて実感すると、そういう感慨がしきり、ではある。

そんな、足元がゆらぐような感覚の時、流れる川の杭のように頼るのが、池田さんの力強い言葉であったりする。

生はどれだけ慈しんでもよい。

この前に読んだ若松英輔さんの本でそのような言葉を見つけた。


入学式では、サークルの勧誘とともに、宗教の勧誘もある。聖書を貰った。実は幼児洗礼名のある僕だが、聖書に親しんだ、というわけではない。だが、例えば西洋の巨大な精神に触れるとき、美術を感じるとき、聖書の知識があればより理解が深まるのだな、ということはよくある。

有名なヨハネ黙示録。内容を紐解き、解説する知識は従ってないのだが、幻視ともいうべきヨハネの言葉はいわば謎に満ちている。

池田さんの著作で見かける言葉、”光あれ!”は見つけたが、”青ざめた馬”の所を読む。これは誤訳で実は青ざめた馬ではない、というのをどこかで読んだ気もするが、さて。

”私は見た。見よ、青ざめた馬で、乗っている者の名は「死」と言い、それにハデスが従っていた。彼らには、地上の四分の一を支配する権威、すなはち剣と飢饉と死病と地上の獣とによって人を殺す権威が与えられた。”