”言葉”の不思議を意識したのは何時ごろだったろうか。
名前、からだったような気がする。あれはアーシュラ・K・ルグインの”ゲド戦記”だったか。
真の名前を相手に知られると、相手の思い通りになる、という。
いま、この日本のWEB世界では、似たようなことになっているのかもしれないが。
それはさておき、名前は所詮名前、名前を表す言葉も単なる表音の仕組みである、と日本でのコドモ生活の中で深く納得していた身には、その名前で相手に操られる、という考え方に接したのはは初めてであった。
その時は納得感はなかったのであるが、なにかひっかかっていた。その考え方になにか真実の響きあり、という風に感じたように思う。
そのひっかかりが、僕の体に小さな見えない触覚を生やしたようだ。そのおぼつかない触覚をもって、日々の暮らしで同じく共鳴するものをいつしか探していたようなのだ。
次に出るのが、”言霊”。言葉に魂がある、とこう表現すると、あるいは星に人格がある(いまはその考え方にも触覚が生えてはいるが)といった、古代のひとのわけのわからん感覚か、と思ってしまったが、それもどうやらそうではない。
言葉に心を込めるという意味か。一部はそうだが、全部ではない。なんなのだろうか、この違和感は。
ひとは、言葉である。言葉が、生である。
このような感覚にも出会った。
なんとなく、なんとなくだが、そういった表現のなかで、繋がり、呟かれた世界がうすぼんやりと見えてきた気がする。
言葉は、意識なのか。
言葉は、魂なのか。
表現しきれず、受け取った人が自分で感じなくてはならないレベルでの、真実が、含まれているような気がしている。
福島智さんの”ぼくの命は言葉とともにある”からの引用。
ぼくの命は言葉とともにある (9歳で失明、18歳で聴力も失ったぼくが東大教授となり、考えてきたこと)
- 作者: 福島智
- 出版社/メーカー: 致知出版社
- 発売日: 2015/05/30
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (5件) を見る
”「光」が認識につながり、「音」が感情につながるとすれば、「言葉」は魂と結びつく働きをするのだと思う。私が幽閉された「暗黒の真空」から私を解放してくれたものが「言葉」であり、私の魂に命を吹き込んでくれたものも「言葉」だった。”
段階を経て盲ろうとなられた福島氏の”言葉”。
深く伝わるものが、ある。