夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

精神障害について。

精神障害について。

 

悩む力、という本を読んだ。北海道のべてるの家についての本である。そこで新たな視点を頂いた。 つまりは、”障碍者支援とは、健常者や家族が支援して、障碍者が健常者的に少しでも働けることを支援することである”ということが常識である、という視線への疑問、という形の視点である。

 

実際の障碍者の皆さんがどのような状態にあるのか、千差万別、個人で当然ながら状態は全く違う。性別、年齢、生い立ち、それぞれの条件で全てが変わってくるものだ。 しかし、上記の視線は、そのことを考えていない、あるいは考えることを意識的あるいは無意識的に拒否した、自分目線での理解である。 という考え方を、この本から得たのだ。

 

公的支援は重要だ。だが、“支援”を”公的(=お上)”なところから”市民(=庶民、下々)”に向けて”やってやる”という構図(実際に行っている人々にはそうした意識はなくとも、制度設計上の)がどうしても、ぬぐいがたく、ある。 そこの奥底にあるのは”僕たち私達に迷惑をかけないで”という自分目線であり、”われわれの税金で(=つまり我々が施す立場で)”養ってやっている、という、無意識の傲岸さが、深く底に注意深く隠されていようとも、厳然と存在している、と感じる。

 

自由からの逃走、ということにつき、私は、”人は安楽に与えられて補償された不自由を、自己判断でリスクが伴う”自由”よりも、求めがちである”、という形で理解している。 だが、そこで、お仕着せの、与えられた一見自由に選んだような体を擬態する危険な楽しい”不自由”を選ぶことは、 たぶん魂を、スポイルする。 だが、そのことを、みんなに気付かせないように、”愉しい不自由”は設計されている。だから普通は気づかないのだ。

これはいわば古くはソクラテスの”洞窟の比喩”、つまり洞窟を覗き込んで(=真実を求め到達して)、真実を見たものは、振り返って見えた我が影を見て、それが影であることに気付く。そしてそれを気づいた人を、世間は許さない。そこにあるのは羨望的ジェラシーだろうか。そして世間が、ソクラテスに対して、自らが自らで死を選ぶようにしむけたこと、いわば厄介払い、真実を隠そうとしたこと、 とも地続きである(注:ソクラテスの洞窟の比喩については、個人的な直感的解釈です)。

普通常識(少なくともこの日本国で)と言われるものには、こうした危険がある。そして、危険は認識されていない場合がほとんどだ。だが魂はたぶんその奥底では感じている。理解している。

 

しかしながら一方で、どこかでそれを表出しながら生きることの困難さも理解している。 そこを”エゴ”が利用するのだ。いや、別にエゴとは他の人格や悪魔のことではない。 たぶん単なるDNAである。生存本能である。もっというと、動物である、生き物である、ということである。 障碍者の個人個人が、個人個人でできる生き方をしながら生き延びることは実はめちゃめちゃ困難だし、もしかすると”コストが高い”という”隠れた優生思想”さえまだまだ含まれていそうな事象である。

 

だがそうであることを体現し、そして生きることを示しているがゆえに、今回この本を読んで、”べてるの家”で暮らす人々の存在が、魂にぐさりと、来たのであろう。

 

 

悩む力

悩む力

  • 作者:斉藤 道雄
  • 発売日: 2002/04/17
  • メディア: 単行本