先日トルストイの人生論の冒頭に挙げられていたカントの「実践理性批判」の結論部で、空と道徳的法則の2つが最も重要なものとして示されていたことを書いた。









そのうちの「私のうちなる道徳的法則」についての説明部を挙げてみる。
また第二のものは、私の見えざる「自己」すなわち私の人格性に始まり、真実の無限性を具えて僅かに悟性のみが辛うじて跡づけ得るような世界[可想界]において、[可想的存在者としての]私をあざやかに顕示する。
カント 実践理性批判 結論部
トルストイ 人生論 冒頭に引用
カントは、そしてそれを読んだトルストイもたぶん、悟性、というもののみが役に立ち、跡をそこに残すことが出来る世界を「可想界」と呼んだ。
これは私見だが、「現世」と言っていいように思う。
可想界、として名付けられ、評価される”現世”に”いる=生きている”時に、”私”を顕示するものこそが「道徳的法則」である、とカントは云っているのだと理解した。
つまりは、心(魂)で無限(としての存在)の現出でもある「空」を想いつつ、自身は悟性、そしてその究極物であり、象徴するものとして「道徳的法則」を携えて、掲げて、行け、”生きて”いけ、ということをカントは云っているのではないか。
まさに、暗闇に松明を掲げるがごとく。魂である自分として。
そんなことを”この世”で”存在”として”生きてゆく”(”ばかりですみません)中での心構えとして、カントはそう説くのであろう、と理解した。
そしてカントがそう考えることは、真実を突いている、と”わが魂”はささやくのである。
自分、とは「存在」の世界の中にかりそめ(その場では永遠ではない、という意味で)のひとりの、ひとつの、肉体で限られた”魂”であり、そして魂とは、全や一や神、と呼ばれるものの一部である。
だがそう考えることは、別に自分が”神に等しい”などと全能感を示したいわけでもなんでもなく、ただ、そうである、それ以上でも以下でもない、という状態にある。
そしてまあ、わが魂(すべての生きとし生けるもの、あるいは鉱物などもはいるかも)は全の一部ではあるが、一部が全、とも云えるのである。
「時」や「空間」は、この「この世ゲーム」をプレイするときの条件、のようなものである。
そして「この世ゲーム」(=生)を離れることが、すなわち「ゲームプレイ終了」すなわち「死」であり、「”全”への帰還」であるのである。
このあたり、”遊びをせんとや生まれけむ”=ホモ・ルーデンス、という思想ともつながるかもしれない。
カントがこうして言挙げすることは、そこに真実が露出していることからしても、”コトバ”として言葉を使用している実例、と言えるかもしれない。
(言葉を”コトバ”としてそのドクサにまみれた意味から離脱させて使ったのが、井筒俊彦さんだったのだと思います。。ぼんやり覚えていた”遊びをせんとや生まれけむ”、ということばは、平安時代末期の1180年ごろ、後白河法皇によって編まれた「梁塵秘抄」の中の歌のようですね。
全文でいくと
遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん
となるようですが、後段は正直知りませんでした。というか”遊び”と”戯れ”の意味重複感を今の時代の私などは感じてしまいますが、当時は両語の意味がすこし違っていたのかも、ですね)