夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

4月3日 パスカル 「パンセ」より。「道徳」という言葉へのアレルギー反応を考えることなど。

人間は自然の中でもっとも弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、宇宙全体が武装する必要はない。一条の蒸気、一滴の水があれば、これを殺すには十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶすとしても、それでも人間はこれを殺すものよりも尊いであろう。

なぜなら、人間は自分が死ぬことを、そして、宇宙が自分よりもすぐれていることを、知っているからである。宇宙はこのことを何も知らない。

してみると、われわれの尊厳はすべて思惟にある。われわれが立ち上がらなければならないのは、ここからであって、空間や時間からではない。空間と時間はわれわれには満たすことのできないものである。だから、正しく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある。

 

パスカル 「パンセ」より 原二郎訳

トルストイ 人生論 冒頭引用部より再引用

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トルストイが、先般本欄で引用したカントの言葉とともに、自著「人生論」冒頭に措いた文である。

 

人間の尊厳は思惟にある、という。

 

その“思惟”のなかで、正しく考えるように努めることの中に、「道徳」の原理がある、とパスカルは云っているのである(私の読みですが)。

 

私見だが、日本で「道徳」というと、その言葉には面倒なドクサ、臆見がたくさんこびりついていると思う。

 

曰く、「強制」

曰く、「価値観の押しつけ」

曰く、「我田引水」

 

私が小学校時代に感じたのは、このような感触だ。

 

いまは違うのかもしれないが、私は「宗教」と同じように、「道徳」という言葉に、今でもすごく警戒する癖があるようだ。

 

だが、そういうドクサをはぎとった、本来の「道徳」ということばは、そんな嫌なものであるはずがない。

 

私が最近、「宗教」ということばから、「無理やり信じることを強制」「ツボを買わせる」「布教を徳を積むことだといって仕組みに織り込む」「財産をお布施として強要」

「思考能力を麻痺」といったネガティブなイメージをはがして、仏教、キリスト教イスラム教、その他おおくの始祖たちが本当に伝えたかったことはなんだろう、と考えることで、すこし「宗教」へのアレルギーが薄まってきたように、

 

「道徳」もその語の通り「道」の「徳」とはなにかを追求する心のことだ、

 

と仮に措けば、それほどアレルギー反応は出ない気がしている。

 

・・・あくまで「気がする」レベルだが。

 

つまりは、宗教、と聞いて、ただ怖い、避けなければ取り込まれまっせ、と考える(その構えは重要だが)のとは別に、その宗教が伝えたい肝というか、コアの考えを理解していきたい、というところ、そこに近い感じで「道徳」へも接するほうがいいのではないか、ということだ。

 

まあ、その方が端的に楽しい、あるいはそう考えなければもったいない、という思いもあるようだ。

 

もったいない。例えばパスカルやカントやトルストイがつかんで大事にした「道徳」という語の意味。

それは私が感じる「強制感」「価値観の押しつけ感」「日本特有の同調圧力受容への誘導感」といったものと、同じわけがない、という感触でもある。

 

ということで、これからも少し気を付けて「道徳」について考えていこうと思っている。

 

池田晶子さんに教えていただいたものに、ドクサ、を見つけて本質を考えること、ということもありますね)