人間は自然の中でもっとも弱い一本の葦にすぎない。だが、それは考える葦である。これを押しつぶすには、宇宙全体が武装する必要はない。一条の蒸気、一滴の水があれば、これを殺すには十分である。しかし、宇宙が人間を押しつぶすとしても、それでも人間はこれを殺すものよりも尊いであろう。
なぜなら、人間は自分が死ぬことを、そして、宇宙が自分よりもすぐれていることを、知っているからである。宇宙はこのことを何も知らない。
してみると、われわれの尊厳はすべて思惟にある。われわれが立ち上がらなければならないのは、ここからであって、空間や時間からではない。空間と時間はわれわれには満たすことのできないものである。だから、正しく考えるように努めよう。ここに道徳の原理がある。
パスカル 「パンセ」より 原二郎訳
トルストイ 人生論 冒頭引用部より再引用

トルストイが、先般本欄で引用したカントの言葉とともに、自著「人生論」冒頭に措いた文である。
人間の尊厳は思惟にある、という。
その“思惟”のなかで、正しく考えるように努めることの中に、「道徳」の原理がある、とパスカルは云っているのである(私の読みですが)。
私見だが、日本で「道徳」というと、その言葉には面倒なドクサ、臆見がたくさんこびりついていると思う。
曰く、「強制」
曰く、「価値観の押しつけ」
曰く、「我田引水」
私が小学校時代に感じたのは、このような感触だ。
いまは違うのかもしれないが、私は「宗教」と同じように、「道徳」という言葉に、今でもすごく警戒する癖があるようだ。
だが、そういうドクサをはぎとった、本来の「道徳」ということばは、そんな嫌なものであるはずがない。
私が最近、「宗教」ということばから、「無理やり信じることを強制」「ツボを買わせる」「布教を徳を積むことだといって仕組みに織り込む」「財産をお布施として強要」
「思考能力を麻痺」といったネガティブなイメージをはがして、仏教、キリスト教、イスラム教、その他おおくの始祖たちが本当に伝えたかったことはなんだろう、と考えることで、すこし「宗教」へのアレルギーが薄まってきたように、
「道徳」もその語の通り「道」の「徳」とはなにかを追求する心のことだ、
と仮に措けば、それほどアレルギー反応は出ない気がしている。
・・・あくまで「気がする」レベルだが。
つまりは、宗教、と聞いて、ただ怖い、避けなければ取り込まれまっせ、と考える(その構えは重要だが)のとは別に、その宗教が伝えたい肝というか、コアの考えを理解していきたい、というところ、そこに近い感じで「道徳」へも接するほうがいいのではないか、ということだ。
まあ、その方が端的に楽しい、あるいはそう考えなければもったいない、という思いもあるようだ。
もったいない。例えばパスカルやカントやトルストイがつかんで大事にした「道徳」という語の意味。
それは私が感じる「強制感」「価値観の押しつけ感」「日本特有の同調圧力受容への誘導感」といったものと、同じわけがない、という感触でもある。
ということで、これからも少し気を付けて「道徳」について考えていこうと思っている。
(池田晶子さんに教えていただいたものに、ドクサ、を見つけて本質を考えること、ということもありますね)