時間は永遠の似像である
ごく簡単に要約するなら、ロマン主義とは、近代思想の主流の位置を占める「啓蒙主義」に対抗するものとして存在する思想的潮流である。啓蒙主義においては、万人にはその共通の「良識(ボン・サンス)」として「理性の光」が与えられており、理性的な字がの働きによって世界の姿を隈無く照らし出すことができると考えられている。しかしロマン主義は、啓蒙主義の唱える「光」の思想に対して、強く異を唱える。ロマン主義は、光によっては照らし出すことのできない領域が、理性の外部に残り続けることを主張するのである。
我々はどこにいるのだろうか。
いやなに言っちゃってるんですか?
となる問いであろう。大丈夫ですか?頭は??
地球の日本のこの時刻に「生きて」活動しとんとちゃうの?
と我が脳内で我が「知識」は答えている。
だがそんなんぜんぶ単なる「そういうことにしておこう」ではないの??
とさらに問うてみる。
いや、問題にしているのは、別に宇宙がない、とか地球がない、とかでは(今のところは)ない。
いやまあ、「胡蝶の夢」路線でいけば、「わが夢こそまこと、この世こそははかなき夢」という、
そんな解釈も行けるわけだが。
まあ、こうしてPCをわが手で打っている「現実感」を、とりあえずは尊重することにして。
でまあ、いわゆる「陰暴論」とか「宗教」とか。
「悪」とか「全」とか。
まあ、「一」とか。
そんなことを含んで考えるとどうなの?
と問うてみる。
ちょっとほら、歪むような。揺らぐような。
そんな気配が(個人的には)ある。
まあ、ここは個人差があろう。
全く持ってゆるぎまへんなあ
まあ、そんな感じが普通かもしれない。
→なんでみんな「関西弁」?
→私の頭の基本言語は「関西弁」だからということでご容赦、ご容赦。。。
暇やなあ、アンタ。
という感じもあるかも、である。
でも、しかし、この地面、永遠あるいは「時間軸」を「数十億年」で見てみれば、
だいぶ揺らぎまっせ。
そう「切り返して」みようか。
そこまでいけば、まあ、皆さん「そら数十億年といわれればなあ、アンタ」、
という雰囲気も出てくるかも。
まあ、そういうこと。
1000年女王(@松本零士先生)に倣っていけば、「千億女王」とでも言おうか。
まあ、それくらいになれば「神話」こそが勢いを増す。
太陽系のみならず、この「我が身」、これだけは確実、と思っている、カント的に言えば「道徳律」??(よくわからず言ってますが)、
それさえどうやらあやふやになってくる。
つまり「生命」という状態も、宇宙的には非常にたまたまな、あやふやな、儚いものではないか、ということですね。
つまりはこの「実在」こそは究極は仮の姿、
頭の中の「考え」こそが、この世界の唯一無二、ではないかとも思えてくるのだ。
そこに、「還る」。
そんなところがわたしにとっての今の「キブン」、まあ、宗教観、あるは「死生観」みたいなもの、で
あるだろうか。
(まあ、ハロウィン、ということで、魔女の箒に同乗させてもらうキブンで書いております。すみません。あと引用のところ、時間についてはこんな感じで考えますが、善悪、というものは究極は一だと思うものの、途中で「一時期」別れるのでは、という感触も持っています。という意味では私は「浪漫主義者」ということになりますね。この感覚、昔はマイナーだったかもですが、今の時代、盛り返してきている気もします)