夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

11月6日 ツインピークスをほぼ遠しで視聴。(アマプラ。Fire Walk with Me除く)欧米人の日々を見て、日本人のネオテニー(幼児性)を思ったりすること。

エロティシズムは、

 

死に至るまでの、

 

生の称揚である。

 

       ジョルジュ・バタイユ

 

今朝の体重64.4kg、体脂肪12.2%。昨日は急な出張でジムに行けず。

まあ、歩きは12000歩ほどできたのでよしとする。

 

一昨日は1歩も外へ出ずにツインピークスの2017バージョンを見まくった。

最後までたどり着いて、1990開始版からのエピソードをほぼ連続して堪能した。

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リンチ監督作品では、「ブルーベルベット」を見ているはずだが記憶はほぼ無い。放送当時はテレビ放映のあと、レンタルビデオが人気でなかなか借りられない、という状況であったと聞くが、なんと34年もの月日を経て映画(Fire Walk with Me:私はアマプラしかないので、無料ではこちらは見られず)以外は通しで視聴できたのは、なんというか感無量である。

 

1990開始版から2017年版でさえ、劇中では”25年の歳月を経て”となっており、スケジュールが合って、あるいは条件が合って再登場した俳優の変化を見て、タイムワープで同窓会に出席しているような気分になった。

 

思うのは、やはり欧米人は18歳でほぼ外見的にも成熟する、ということだ。そして18歳成人後は徹底的に”個人”として扱うということ。この感覚は日本ではあまりないだろうし、あるいはアメリカではなくリンチ監督個人の思想かもしれないが。

 

リンチ監督は経歴を見ると、画家系の家系のようで、美術系の学校を出ているようだし、生活の糧にエングレーヴィング(銅版画の一種で腐食せずに直接彫る技法)で作品を作って売っていたということだ。

独特の絵作り、音楽も含めた映像の面白さ、美しさは、映画と言えども一枚絵の無数の連続である、という感覚で撮っているいるのではないかと感じた。

 

私はワシントンに一瞬いったことがあるが出張だったので、あまり風俗雰囲気はわからない。だが多分NYとはまた違っているのだろう。そして架空の街ツインピークスがワシントンDCではなくワシントン州にある(東京で行けば23区ではなく東京都内、という感じか)という説明も、なんとなくわかったような気がしてみていた。

 

日本人(モンゴロイド)は蒙古斑が長期残ることからも、ネオテニー(幼児性)を残して成人する、という説があるようだ。

これはもう少し複雑で、文化的要素(島国、日本語の閉鎖性、独自性、外部民族との接触の歴史的な少なさ)も相まって、という気がするのだが、いずれにせよスカイ・クロラの成人しない製品としての人種のように、ある意味特殊な要因を持っている気がする。

 

いわゆる日本文化(アニメや漫画)は、そうしたネオテニーを極限まで突き詰めた面もあると思うし、それが特異な、接したことがない文化として海外の人に映っている可能性があるだろう。

 

だが、幼児性はとかく「誰かにやってもらう」という意識とも親和性が高いだろう。自身が「まだ成熟していない」のであれば、長い期間を経てやっと「成熟した」自分以外の人たちに、難しいことはまかせとけ、というような気持ち。これは自身に胸を当てて考えると、自分の中にも確実にある感覚だ。要するに「現実世界は人任せ」だ。

 

これはもしかすると、生涯を通じて新鮮な興味を持ち続ける可能性にもつながるだろう。芸術家が長生き傾向あるのは、心からの興味を持ち続けて生きているから、という意見があるが、感覚的には同意する。

 

責任感に欠けるが、クリエイティブ。つまり「真実の生より架空の生に憧れる」。

 

うーむ、これは私だ。

 

自己責任、自衛。アメリカでは銃は究極の自己防衛手段だろうが、国どおしの核保有がごとく、個人で核を保有し牽制している、という面もあるだろう。

 

リンチ監督は幼少時や若い時に、治安の悪い地区で苦労したという。その時の激烈な記憶が作品に木魂のように響いている。

 

悪を認めないのが啓蒙主義(良識(ボン・サンス)をすべての人が持っている=デカルトの立場)であるのなら、どうしようもなく悪を感じるものが浪漫主義者と言えるだろう。

 

昔のヒーローものは、完全悪という存在が必須であった。それが徐々にそれぞれの事情、悪は悪だけではない、善は善だけではない、という傾向になってきた。

 

これは果たして浪漫主義から啓蒙主義への変化なのだろうか。

 

私見だが、浪漫主義は物語には必須に近い形で存在し(私が好んでそれを求めているだけかもですが)、単にそれが複雑化しただけのような気もする。

 

フィクション=浪漫主義

ノン=フィクション=啓蒙主義

 

荒俣宏さんがどこかで、昔はフィクションばかり読んでいたが、今はノン・フィクションばかりだ、とおっしゃっていた気がする。

私もどうやらそのような気がするが、好きな絵画や物語には、やはり「浪漫」が欲しいとも思う。

 

たとえ啓蒙主義者に「あまっちょろい」と思われているのだとしても。

 

 

 

デカルト方法序説の冒頭部を引用する。

これが「啓蒙主義」の本丸、なのだろうか。

 

そしてそれを語る小林秀雄も引いておく。

 

良識はこの世のものでいちばん公平に分配されているものです。

 

デカルト 方法序説 冒頭部

 

要するに、彼に言わせれば、常識というものほど、公平に、各人に分配されているものは世の中にないのであり、常識という精神の働き、『自然に備わった智恵』で、誰もが充分だと思い、どんな欲張りも不足と言わないのが普通なのである。

 

「常識について」 小林秀雄

 

 

(まだまだ私は精神的にはネオテニー真只中、という気がしています)