仕事、というのは、基本人とともに行うものである。
直接話さなくとも、成果物提出だけでも、在宅でもそうだ。
生活、もほぼそうだ。
家族や親族、肉親(いっしょか)がいることはすばらしいのだが、
まあ、関係は発生する。
人生のステージによる変化はあるだろう。ほぼすべてが、初めてのことだ。
同じに見えて同じではない。
その変化のことを、ひとは”時間”と呼ぶことにしたのだろう。
変化があってもなくても、それを含んで「なべてこの世はこともなし」(原典:ロバート・ブラウニング。赤毛のアンなどでも引用あり)という視点もあるし、「同じ水」ではなく「万物流転」という視点もある(ヘラクレイトス)。
どちらでもなく、どちらでもある。
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ただ、一日の間に、まるで私の精神は雑事のゴミ箱のように、いろいろなことがどんどん積み重なってゆく。
もちろん見えないが、まあ、”ストレス”だ。
それを一旦抑え込むには、別の事柄を上から乗っけるのが手っ取り早い。
まあ、意識を飛ばす、という手もある。飲酒など。
安易にこれにはまると、「しんどいな」→「酒飲んでわすれよ」となる。
一番いいのがリセットだ。
眠ること。
眠りが十分であれば、例えば前日の問題点はそれをモチーフにした夢になって深層心理に教えこむ(いや、暗示するくらいか)ということもあるのではないかと、思っている。
で、いったん使用したモチーフは消えるか軽くなる。
寝る前に問題を考えると、朝起きると解決策がくる、という経験があるような気もするが、まあそういうことだろう。
夜の間にストレスがシュレッダーにかけられているような感じだろうか。
まあ、睡眠が少ないと、そうはなりにくい。目覚ましで無理に起きるなど。
できれば同じ時間に眠り、目覚ましいなしで起きたいものだ。
昨日はジムに行った。2時間半いて、帰りにしめじともやしを買った。
その後自転車で日比谷図書館へ。油をさして、空気を入れた自転車でいったら、快適だった。往復で50分程度。
それから夕食、最近見ているツイン・ピークスを2話ほど(一話45分くらい)みたら12時半になった。
起床は5時50分。6時に念のため目覚ましをかけたが、意識の中にあったのか、10分前に目が覚めた。
心に、雑事はあるか。まあ、ある。
だが今日出がけに編集工房ノアさんから送っていただいた「海鳴り」36号を見ていたら、巻頭に詩人の貞久秀紀さんのエッセイが載っていた。
私は詩には惹かれるが、疎い方だ。
せいぜい茨木のり子さん程度。
茨木のり子さん
その貞久さんのエッセイに八木重吉の詩が引かれていた。
山
あかるい日
山をみつめてゐると
こころが、かがやいてきて
なにかものをもつて
じつと立つてゐたいやうな気がしてくる
もはや旧かなづかいを日常では見ることはないが、戦前はこれであったのだ。
おおきい”つ”を文脈と勘だけで小さい”っ”と認識していたのか、
はたまた別に気にせず”つ”と言っており、勢いで小さい”っ”的に発語していたのか、
そのあたりさえさっぱりわからない。
わからないし、旧かなづかいだと正直読みにくいが、
一方で古風な感じが沸き起こる。
そして、精神や魂で、詩に対峙する。
この”対峙”は、朝の精神エネルギーが満ちて、さらに雑事がシュレッド(そんな言い方あるのか?)されていなければ困難だ。
そして、詩の中で、山に対峙している詩人=私もまた、
雑事の消えた心境であるのだろう。
(詩、を読める心にまで心を整えることだけでも、けっこう難しいですね。現代で詩があまり顧みられないのも、私を含めて忙しすぎるからだと思います)