夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

11月2日 心が雑音で満ちるとき。

仕事、というのは、基本人とともに行うものである。

f:id:mamezouya:20241102110805j:image
f:id:mamezouya:20241102110813j:image
f:id:mamezouya:20241102110758j:image
f:id:mamezouya:20241102110809j:image
f:id:mamezouya:20241102110801j:image

 

直接話さなくとも、成果物提出だけでも、在宅でもそうだ。

生活、もほぼそうだ。

 

家族や親族、肉親(いっしょか)がいることはすばらしいのだが、

まあ、関係は発生する。

 

 

人生のステージによる変化はあるだろう。ほぼすべてが、初めてのことだ。

同じに見えて同じではない。

 

その変化のことを、ひとは”時間”と呼ぶことにしたのだろう。

 

変化があってもなくても、それを含んで「なべてこの世はこともなし」(原典:ロバート・ブラウニング赤毛のアンなどでも引用あり)という視点もあるし、「同じ水」ではなく「万物流転」という視点もある(ヘラクレイトス)。

 

どちらでもなく、どちらでもある。

 

ーーー

 

ただ、一日の間に、まるで私の精神は雑事のゴミ箱のように、いろいろなことがどんどん積み重なってゆく。

 

もちろん見えないが、まあ、”ストレス”だ。

 

それを一旦抑え込むには、別の事柄を上から乗っけるのが手っ取り早い。

まあ、意識を飛ばす、という手もある。飲酒など。

 

安易にこれにはまると、「しんどいな」→「酒飲んでわすれよ」となる。

 

 

一番いいのがリセットだ。

眠ること。

 

眠りが十分であれば、例えば前日の問題点はそれをモチーフにした夢になって深層心理に教えこむ(いや、暗示するくらいか)ということもあるのではないかと、思っている。

 

で、いったん使用したモチーフは消えるか軽くなる。

 

寝る前に問題を考えると、朝起きると解決策がくる、という経験があるような気もするが、まあそういうことだろう。

 

夜の間にストレスがシュレッダーにかけられているような感じだろうか。

 

まあ、睡眠が少ないと、そうはなりにくい。目覚ましで無理に起きるなど。

 

できれば同じ時間に眠り、目覚ましいなしで起きたいものだ。

 

 

昨日はジムに行った。2時間半いて、帰りにしめじともやしを買った。

その後自転車で日比谷図書館へ。油をさして、空気を入れた自転車でいったら、快適だった。往復で50分程度。

それから夕食、最近見ているツイン・ピークスを2話ほど(一話45分くらい)みたら12時半になった。

 

起床は5時50分。6時に念のため目覚ましをかけたが、意識の中にあったのか、10分前に目が覚めた。

 

 

心に、雑事はあるか。まあ、ある。

 

だが今日出がけに編集工房ノアさんから送っていただいた「海鳴り」36号を見ていたら、巻頭に詩人の貞久秀紀さんのエッセイが載っていた。

 

私は詩には惹かれるが、疎い方だ。

 

せいぜい茨木のり子さん程度。

 

関連する画像の詳細をご覧ください。인쇄하기茨木のり子さん

 

その貞久さんのエッセイに八木重吉の詩が引かれていた。

 

 

あかるい日

山をみつめてゐると

こころが、かがやいてきて

なにかものをもつて

じつと立つてゐたいやうな気がしてくる

 

もはや旧かなづかいを日常では見ることはないが、戦前はこれであったのだ。

おおきい”つ”を文脈と勘だけで小さい”っ”と認識していたのか、

はたまた別に気にせず”つ”と言っており、勢いで小さい”っ”的に発語していたのか、

 

そのあたりさえさっぱりわからない。

 

わからないし、旧かなづかいだと正直読みにくいが、

一方で古風な感じが沸き起こる。

 

そして、精神や魂で、詩に対峙する。

 

 

この”対峙”は、朝の精神エネルギーが満ちて、さらに雑事がシュレッド(そんな言い方あるのか?)されていなければ困難だ。

 

そして、詩の中で、山に対峙している詩人=私もまた、

 

雑事の消えた心境であるのだろう。

 

(詩、を読める心にまで心を整えることだけでも、けっこう難しいですね。現代で詩があまり顧みられないのも、私を含めて忙しすぎるからだと思います)