昨日の晩は、10時頃に眠気を催し、そのまま寝てしまい、今朝はなんと6時まで寝ていた。普段は4時に目覚ましをかけているのだが、8時間寝たということは、いささか疲れていたのかもしれない。
記憶と言葉。
記憶とは本当におぼつかないものだ、と日々実感している。
記憶力が低下しているのかもしれないが、例えば本などで、「これは知りたかった事実だ。これはこれを知ったあとはこの”知りたかったことを知った”という感動のもと、いつでもわが記憶から呼び出せるに違いない」と思う情報を知ったとする。
すると、それを、物も見事に、すっかりと、忘れている。
少し経つと、本当に忘れ切っている。
たぶん、なんとなく思うのだが、自身の無意識あるいはあるかもしれない、(存在の無意識の経験すべてが蓄積される海=いわゆるアカシア年代記的なもの)には、その情報はあるのかもしれない。残っているのかもしれない。だが、表面的に「覚えている」ということが、あまりに少ない、あるいは期間が短いのだ。
これはいったいなんなんだろうか。
人は、なりたいようになる、という。究極的には、たとえばいわゆる、「今の人間界」でこういう姿が素晴らしい、と言われているものは、参考にはなれ、そのものには自分はなることができない。
そして、どうやら、瞬間的にそれがわかっているようなのだ。「人がすすめるものを盲信し、完コピしてもしかたがない。」と。
この話、堂々めぐり、鶏と卵、の話に陥ってしまうかもしれないと危惧している。
判断を、ものすごく、瞬間的にしてしまっている。
人は見た目が9割(だったかな?)というベストセラーがあったのだが、その中身と見るより先に、そのタイトルを読むだけで、「たしかにそうだ」という思いがやってくる。
あまり、見た目で判断することはよくないのではないのかなあ、と言う思いはあるにはある。いわゆる最近の言葉でいけば、「親ガチャ」や「容姿ガチャ」という言葉も浮かんでくる。
いや、見た目とは、素材をどのように生かすのか、生かそうとする思いが大切だ、ということもいうのだが、
身もふたもなくいうのならば、そもそも素材が必要なのだ。
素材なくして、完成品は存在しないのだ。
そして、見た目が気になるのは、たぶん「生存本能」「個体ではなく、種族を優先させようとするDNA」のような、なんだか根源的なところからの指示である、かもしれないとも思う。
そんなものにまどわされるな、
という思いもあれば
いやそうならもうしかたないのか
という思いもある。このあたりは、もっと考えていかねばならないところかもしれない。個の保存本能。
つまり、いわゆる「出家」、ゴーダマ・シッタールダや、グノーシス主義(異端とされているが、本来のその主義が目指すところの考え方)では、生涯独身、を求める(これは信者への強制ではなく、そういう思考結果になったといういみで)ことがあるが、あるいはこれがもしかすると、「見た目重視」=「生存・種族保存本能」の先にあるものであるのかもしれない、という気がしているのだ。
まあ、わたしがそれを実践できるというわけでは全然ない。ないのだが、なんとなくそれらの思想はそうしたことを目指している気がする、といった程度のことを、思っている。
まあ、話がずれたが、いずれにせよ、「すぐ忘れる」であった。だがその忘れは、例えば死に面して「なんとか従前の知識から身近なこの死を避ける術はないものか」と一瞬で自身あるいはすべての知識が「走馬灯」のようにあふれ出る一瞬(それは多分幸運にも生き延びたひとびとが経験として語っているのだと思うが)を思い出すまでもなく、どうやら「知識」「記憶」はどこかに残っているものである、という気がするのだ。
結局は「忘れてしまっても、まあ、いいではないか」と自身を安易に安心させたい、と思っていて、それに都合のいいように考えているだけかもしれないのだが。
でも、もし、本当にそうであるのなら。
忘れたようでも、必要であれば、出てくる、かもしれないではないか。
そう考えると、忘れてしまっているようでも、すこし安心してしまうのだ。
(出てきてほしい、という単なる希望的観測、なのかもしれませんが)