生とはなんであるか。
人と物との違いとは。
死を前にしたとき、”少し前に目の前にいた「人」”と、
もう二度と触れ合えない、という事実と向き合って、それをなんとか”様式”で”自らの気持ち”を、整理し、落ち着かせるもの、それが”葬儀”であろう。
葬式は”死者のためにする”と自らをある意味納得させる装置であり、自分や家族の為にするもの。
であれば本当に死者に向き合うべき作法といものがあるのだろうか。
死者のことを考えることを”悼む”という。
良き人生でしたな、ということで”気持ちに区切り”をつけず、考え続けること。
忘れることで人は本当に死すという。
幽霊とは、”忘れないでくれ”とする思いを感じた(ように思う)自らの心が反映したもの。
幽霊の正体見たり枯れ尾花
の真のこころはその辺りにあるのだろう。
”生き物”であるヒトはこの世で確固たる物である、と思っているようで実は心もとない、というところが人の奥底にある本音であろう。
物と我とはどこがちがうのか。
違わない、とするのが日本の思想。僕はこの考え方は案外捨てたものではない、と感じる。すべてのものに魂がやどる。
WHY?それは動くのか?
そういいたくなるのもわかる、が、しかし。
動かないから魂がないとどうしていえるのか。
ある、としたほうが心の座りがよくないか?
そんなあたりのもやもやが、実は宗教心(宗教ではなく)、神の存在の捉え方、といったものが生まれるゆりかごである気がする。
生と死の間に我々がある。その我々とは?
時間からの影響と集まり方が違うだけで、この手の腕時計と指先はどう違うのか。
どちらも密度の問題。
ぎゅっと詰まっている。今動いている。しかし時間が経てば細胞は入れ替わる。
入れ替わった先にあるものは、それはこの”腕時計”のありかたと根本的にどう違うのか。
同じではないか。
すべてのものが成仏する。
いや既に皆が”仏”ではないのか。
いまはあるステージにある。ただそれだけ。
そして出会い、触れて、出来事となっている。
すべては空前絶後。2度とはない。この世での出来事はすべてが一回きり。
そこには生者も死者もない。
そこには生者と死者しかない。
そのなかで、自らはこの体にある”魂”を深く静かに”チェリッシュ=心に””抱き”、
ただ進む。
どこへ?
どこでもない。
いまここにある生
そこへか。
この世にいま在る、ということの奇跡、その不思議さに打たれて、ただ進む。