夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

感性とはなにか。

感性、とはなんだろうか。

感性がにぶる、という。感受性、と似たことばかもしれない。見えない心のアンテナ、というか、目の前にちょうちんあんこうの光のように垂れているイメージもある。心の琴線、という言い方もある。

これは自身、魂に元気がないと、あんこうの光は弱くなる。アンテナにそもそも引っかけよう、という気力が萎えてくる。一方で、何かに接すると思わずあんこう光(すっかりあんこうになってしまいましたが)が光りだす、ということもある。

例えば私は、太陽の光に強く反応する。いろいろ写真を撮ることが増えたが、美しい、と感じるのは太陽の光がらみが多いようだ。雲も、朝焼け、も月も、すべて太陽の光があって生まれるものである。もちろん電球の光や、自力発光する星たちも目に入っているだろう。太陽に限ったものではない。つまり、光だ。

光、あれ。

まず最初に在った言葉である。

光、から伸びるものとして、色、がある。くわしくは理解していないが、光にはすべての色が含まれていると感じる。赤やオレンジ色を見るだけで、心が浮き立つことがある。服装でも色彩学があるだろうが、色によっても気持ちの浮き立ち=感性の活性化、が起きるのだろう。

光以外で、感性に訴えるもの。これは形であろう。複雑な精密なものを見るとときめきを感じる。最も美しく感じる貌は、左右対称、シンメトリーが完璧なものであるという。対比して置かれたものも面白い。

私は個人的に腕時計が好きなのだが、いろいろな好きな要素があるが、まずはフェイスを見ることになる。多くは丸い文字盤を持つ。そこに含まれる意匠は千差万別である。文字盤を見たときの面白さは、例えば曼荼羅を見たときの面白さとも共通である。色の差異も面白い、例えば、差し色でハンドに赤や青が使われるだけで、その意匠を持った時計をしている、という意識を常に持っていたりする。それこそ”差し色”という意味の本質であろう。そういう意味では、男性にとって腕時計は唯一(実際はネクタイもそうだとおもうが、昨今のネクタイ悪役論はひどいので)の装身具、という言い方はわかる気がする。スーツ、には約束が多く、職種によるが、基本的には遊びが多いとはいえない。もちろん腕時計にもTPOと呼ばれるルールがあるのだろうが、冠婚葬祭以外の通常勤務で、営業で常に顧客に時計が見られる、ということがなければ、最近はルールが緩くなった(=自身で気にしなくてもよくなった)と感じている。この世の進化の一つだろう。

「複雑」で「まとまり」があると魅力を感じる、という分析もある。なにより複雑な要素を、まとめよう、という意思があり、まとめに使う技や感性があり、その結果として美が生まれる。

美は、生まれたとたん自らの存在理由を持つもので、生み出したものの所有物ではない。このことは、例えば子供と親の関係にも似ている。親は子供を自らが生み出した従属物である、と思い、支配しようとする傾向がある。農耕が中心であった時代、労働力、老年後自らを支えるものと期待して子どもをたくさん”所有”する。社会の中心が”家”や”ムラ”であったときは、どうしてもそういう意識となる。そうして育てられた子供もまた、自らの子供をそのように扱う。

現在の社会は、いろいろといわれるが、子供が成年後親の支配に置かれることはない、あるいは少ない、という意味では、そうした時代より進歩した、ともいえるだろう。だが、そのためには国による年金制度、親世代が子供に頼らずに生きていける手段が必要となる。韓国では詳しくは把握していないが、いまだ年金制度がない、あるいは不十分、あるいは成立して年度が浅いという。したがって、年齢により職を離れた世代が子供に頼る割合が高いという情報を見たように思う。このことが、親と子の関係、家族という意識、老年世代への意識、というものに影響するだろう。

美、が生まれてから独り歩きする、という話であった。いまは原作の二次制作も多いというか自然にある。そうした二次制作者が、作品が生まれたのち作者が原作に手を加えたことに対し、”作者が勝手なことをするな”という意見を作者に言い、作者が驚き、驚いたことを表明する、というようなことがあった。

その時は作者サイドの意見、”生みだしたものであるので、当然に改作もできる”というものがある意味当然だと思っていた。しかし、昔手塚治虫全集が講談社より刊行されていた際、手塚は自身の過去作品に、手を入れたものを全集として刊行していた。当然神様と呼ばれていた手塚に、誰も表立って批判をしていなかったように思うが、それを読む読者たる私の目には、やはり何十年も経て手をいれた箇所の画風は大きく異なっており、違和感があったことを思い出す。手塚が、過去作を見て、その時のテクニックと画力が今の自分には耐えられない、思わず修正してしまう、という気持ちは、大変によく理解できたのだが。

子ども、作品、美。その時の諸条件で、何が正解であるのかはわからない。だが、いったん生み出されたものは、その生み出された時(ある意味永遠の時)の中で、永久に固定されたもの、でもあるのだ。そしてそれを感じ味わった側が、それを後から変えようとする力に抗うこと。これはつまりはその美、その存在に対して感じたその瞬間にのみ奇跡的に存在する自らの思いを大切にしたい、他力から影響を受けたくない、ということなのであるだろう。

手塚治虫、自らの世界を作る、という姿を見せてくれた、大切な恩人です)