夢見るように、考えたい

池田晶子さんの喝、”悩むな!考えろ!”を銘としております。

思考の連鎖。

男性の思考、女性の思考、というものはあるのだろうか。

直感的には、その類型、癖、臭い、というより、女性にはこの感じは出にくいだろうなあ、と思うものはある。

それはどうしようもない、しょうもなさ、もうどうにもこうにも、こうならざるを得ない、でもそれはひとたび世間にでるのであれば、ゆがんだ、癖のある、一言で言えば”オタクな”、ものである。思想である。その思想の生んだ猥雑でまがまがしい生命力、人を生むことが無い男性、という性の思考が産んだ”思考の子供”のような体を示す。

しかし、その存在には、人は嫌悪感を持ちつつも、眼をそらすことがなぜかできない魅力があることが多い。なぜなのかわからないが、そこにあるオーラ。たぶん抑圧された”生”や”性”がからんでいそうで、そのような重荷を必死で隠して、生きざるを得ないタマラナサも匂い立っている。

そしてそのような発露は、多くの場合男性のものである。ある時期、タイミングで、”世間”というものを見失い、その存在をなきものにしてしまう回路、が男性には密かに組み込まれているかのようである。

そして、そのことは、その持ち主である男性に、本人には見えない十字架を持たせているのである。それはその男性のいないところで、”かわいそうなヒト”とささやかれたり、”ちょっとおかしいひと”と密かにカテゴライズされたりするだろう。悪意はなくともヒトはそれがすこし”世間”からはみでていることを感じる。そしてある種の恐怖からそういった反応をせざるを得ないのである。

それは例えば、もしそれに自分がまきこまれたならば、自分を壊し、さらいつくすような危険な暴力がありうる、ふくまれうるものだ、という直感が含まれているからであるようだ。危険でパワアのあるもの。避けられず、攫って行って欲しくなる力。

それは例えば、ハメルーンの笛のように、異界に、死に、不可逆の別世界に、自分を攫って行きそうなものである。それは危険であり、暗くそして甘い魅力に満ちている。

その第一の例として思いつくのは、ドジソン教授がアリスを含む姉妹に語った物語である。そこに幼児に対するゆがんだ思いがあったとかなかったとかは関係がない。そのような物語を生みうるドジソン氏の内面には、自らが御し得ない、ある種の”もてあます怪物”のような思いやうごめくものがあったであろうことを、僕は確信を持って信じている。それはたぶん自らの中に同じものが含まれており、それが彼の物語の同質のものに、反応しているからで、あるのだろう。

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”オタク”。”カラオケ”と同じようにオリジナルの意味がよく理解されないまま外国語化したものといえるだろう。

そもそもオタク、といわれる存在はどんなものなのであろうか。

これは、基本的には自分の内面を端的に吐露する立場、といったものだと考える。オタク、というのは呼びかけである。自らの内面にもてあますものをあまた抱え、あふれ出しそうになり、本来他人とは共有できないであろう、という前提で始めたそれらの内面物を、おずおずと、拒否されることをものすごく恐怖しながら、反面同病相哀れむ仲間を希いながら、手を伸ばすときに相手にかけることば、それが”オタク”である。

あなた、という意味なのである。相手をひとかどの専門家であるように呼びかけることで、自らの専門性をひけらかそうという心理がもれなく隠れている呼びかけである。ある意味、強烈な自意識である。自意識過剰である。そして、もう一つ、そうした前提を共有しつつ語り合う”仲間たち”に入ることができない、外部の、浅い、人間が、軽蔑の形をとった羨望の呼称として採用したことば、なのである。オリジナルで自らが自らを称した言葉ではもちろんない。言葉の成立後、ああ、じぶんはこれだな、と思って自称することはあるにせよ。

そして、もう一つの付随物、これが”キモイ”であろう。すべからく女子、からの一言が堪らなく嫌な気がするかたちを取りながら実は嬉しさが隠れている。こう言われたい、のである。いわれたくないようないわれたさ、なのである。複雑である。身もだえするような思いがある。省略することで、言葉は何故これほどまがまがしい生命力を持つのであろう。それがカタカナとなったとたんに、これまた別の意匠を即座に身にまとう。オタク、キモイ。これほど内面に一瞬にしてゾロリ、と肉迫するパワーのあることばはあまり無い。そのことばを見えない”称号のように身にまとう人々、これこそが”オタク”なのである。それはそれで、自らの居場所が世界にある、ような気がするものなのでは、ないだろうか。

まあ、言われ方とシチュエーション、にもよるのだが。



もし、僕が。

「アンタ、オタクか?」

と訊かれたら、

「まあ、そやろなあ。」

と、ちょっと嬉しそうに、答えるかもしれない。

でもたぶん、真性のオタクほど、今の僕は深くはないだろう。

しかし、そうした深みへのダイブ、これは僕を激しく魅了する。